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席から見ると一直線場の中で欠が放たれた様な錯覚になるわけです。こらは演出なのです。射抜いた矢は相当の速度で射抜きますから途中で見えなくなるわけです。飛んで言った矢は見えません。すると娘はリンゴの的を落とすわけなんです。そこで射抜いた事になるわけなんですけれど、それを一層強調するために後ろから代官の手下が走って来て矢の刺さったリンゴを持ち上げるのです。そうするとかたずを呑んで見守っていた観客は、拍手喝采で、クライマックスのシーンを終えてしまうということになります。これは演出上の効果なんです。本物らしく見せる芝居の嘘なんです。このインターラーゲンでの芝居は演出者はプロですが出演者はすべて素人で、いわゆる市民劇です。街の活性化にもつながっています。

その下のアンデルセン祭りのものは、日本で言う親子劇場のようなもので、記念館の中庭にオープンセットを組んでいるわけです。それは非常にメルヘンチックなもので入り口があり、窓があゆするわけですが、アンデルセンの作品を6本ぐらい、各作品10分程度をオムニバスでやるわけです。例えば、裸の王様だと裸の王様が舞台の端から端まで歩くだけとかするわけです。けれどもエンディングが近づいてくるのに有名な人魚姫だけがない。これはどうしたことかと思っているとエンデイングと同時に同じ中庭にある池に岩の形をしたモーターボートに乗った人魚姫が現れるのです。そして最後に観客と一緒に写真を撮ってくれるのです。そう言ったものです。

次に、ハムレットですが、本物のコロンボ城を借景にしてその前に仮設舞台を作っています。おもしろかったのは、ハムレットという大作、原語でやっても3時間はかかる大作を舞踊劇として1時間30分でやっていました。実際に衣装は全部着ていません。タイツ姿なんです。そして現代音楽なんです。その舞台の設定というのは、後ろにコロンボ城その下に土手があって、この街は港町ですから満ち潮になると城の周りが堀になるのです。その部分に橋を架けてありその橋が舞台になっているわけです。だからプロセニアムアーチもなにもないわけです。かと言って、ウイリアムテルやアンデルセンのように、ドアとか窓とかがあって家そのものを建ててません。写実であろうと、様式化であろうとなにもないのです。登・退場は全部舞台のセリから、つまり堀の下から上がってくるのです。

例えば、墓堀の場面などはセリを下げればいいわけです。オフェーリアが気が狂って入水するシーン、原作にはありませんが映画にはありましたが、そのようなシーンもセリを使えば簡単にできるわけです。そういうふうにして舞台の袖がない、プロセニアムアーチがないと言うときには下から上げるより方法がないのです。

舞台のセットは2枚のプラスチックの板だけです。後はなにもありません。強いて言えばベッドだけです。衣装と言えば殺された父親が亡霊になって出て来るくるところで甲冑を着ています。その出方は、2,000人ほどある客席の真ん中の通路を通って舞台に上がって来るわけですがその舞台の周りを炎がランニングするんです。この場面は日本ではよくスモークを炊いて城壁の上から出たり、城が紗幕になっていてそこにハムレットが出たりします。そこの亡霊は炎の中に甲膏を着て出て来るのです。それは観客が甲膏を着た世界になるわけです。観客も亡霊と錯覚を起こすような演出をしているわけなんです。つまり、観客代表、亡霊代表、その亡霊代表の甲膏を着た人間が現世お見るという演出をしているわけです。現世はタイツ姿の踊りなんです。炎と同時にそこにうごめいている現代舞踊が浮かび上がって来るわけです。この炎が消えて今度はレーダー光線を使ったりいろいろな照明が行われるのです。物語が進展していってハムレットがオフェーリアの父親を殺すシーンでは歌舞伎のどぶぜりのようなものがあってそこに2枚のプラスチックの板が上がって来ます。これが原作でいう城のカーテンなんです。カーテンの後ろの恋人の父親を誤って殺すわけなんですがその2枚のプラスチックの板の間に油が入っていて殺したと同時に赤い油がにじむようになっています。殺したことを象徴的に、抽象的に表現しているわけなんです。それがすむと、母親がそのことで悩むハムレットを慰めるシーンがあり、その次にまた違うパネルが上がって来て、これに水面反射がってその向こうを気が狂ったオフェーリアが踊りながら次のセリに乗って入水の場面となります。そしてハムレットも死にすべてが終わった所で初めの場面に戻り、亡霊一人が残るという場面になります。そこでは土手に陣取った合唱団の歌とともにたいまつの裸火によってよってコロンボ城が霞んで行くといった所で終わります。

このように、3つのスタイルの違う種類をご紹介しましたが、野外劇場といえどもなにも写実的なことをする必要はないし、作品の中身に合わせてメルヘンチックに、あるときは象徴的に・抽象的にやるということは、演出というものを美術的にどう解釈するかということではないかと思います。

 

4. 街角の劇空間

もうひとつ付け加えておきたいのですが、わたしがこの劇を見たのは8月で北欧は白夜です。ですから夜10時ぐらいでないと日が暮れないのです。だから10時からしか劇は始まらないのです。そうすると帰りの電車がないわけです。コペンハーゲンから特急電車で1時間ほどででホテルも少ない町ですから。何とかして観たいと思ってコペンハーゲンのプレイガイドに駆け込みました。そこにはコロンボ城のある町の行政の人がバッジをつけてそこにいるのです。現地にはホテルがないので終わったら臨時電車が出るということを案内していました。このような文化・芸術に対して行政や国もサポートしているを少しうらやましく感じました。このように演劇というものは、地元になんらかの形で定着して、町お越しということではなくても、そのようにやって行こうというからには、いちプロデュサーの才覚だけではなしに、やはりそう言ったバックアップする一つの組織が、企業がお金を出すだけではなしに、絶対に必要ではないかと感じました。

そのほかにも、ギリシャでアテネの野外劇を1,000円ぐらいで観ることができます。また、オーバーアマガムのキリスト受難劇なども町越しのために行政の方が力を入れてやっていて、出演者を公休扱いにするということに至るまで配慮してやっています。日本ではあまり例がないのではないかと思ってちょっと付け加えさせていただきました。

 

 

 

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