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そこで、布線経路を暗転の出入りを考え変更し、棟梁に自分の非をあやまりー件落着となりました。これは、良い意味での徒弟制度の延長線上でのことで、技術・しきたりを身につけるには、先輩から『盗む』しかなく、教えてはくれませんでした。

 

(3) 舞台気質の神髄

当時の大道具さんは、棟梁を中心に従弟制度が確立され、現場が成り立っていました。そこには、良い意味での徒弟制度による職場が確立され、一歩間違えば人命にかかわる建てこみを、短時間で棟梁の指図で一体となって作業がなされていました。厳しいしきたりのもとで修業が現場を通じ、たたき込まれていたといえましょう。ですから、舞台上で不幸にして起こった事故は、どのような理由であれ、棟梁がその全責任をとっていました。

このような舞台の仕組みを言葉で教えるのではなく、体験を通じて学ぶルールが確立されていたようす。実名を出して申し訳ありませんが、当時のフェステイバルホールの棟梁である上新さん(故人)が、他の分野である無知識の私に常に厳しく盗ませてくれました。古典用語を原点とする舞台用語、ナグリの使い方等、退職まで在職された5年間はシゴキそのものでした。私はこのような恵まれた環境のなかで育てられ、古き佳きものを身につけることができました。この教訓から音響マンとしての舞台でのあり方を私なりに舞台・照明の現場と調和を図る中で、舞台音響の確立をはかりました。弱電部門を専門とする分野を如何に舞台に融合させるのかにありました。舞台・照明で増えてくる弱電機器の相談を受けたりする中で、専門職としての認識を深める事に専念し、対外的にも音響マンの位置づけをはかりました。

 

(4) ホール間現場レベルの交流

その頃、業界の先輩である産経ホールの岡本さん、渡辺さん(現東京音研)、京都会館の三田さん(現音響機器システムプランナー)、同年配の厚生年金ホールの辰口さん(現厚生年金ホール文化支配人)、京都会館の坂本さん、音研の今さん(現郵貯)、又劇団関係では俳優座の田村さん、亡くなられた中村準一さん、文学座の畑さん、吉田さん、等業界のブレーンともいえる方々との仕事を通じての交流は、井のなかの蛙といわれた閉鎖的な感覚が取り払われた時期でもありました。お互いの経験を語り合い、時にはコンサートの初日の情報を次の公演地であるホールへ連絡する中で仲間意識を高めました。その情報交換の中には、時には仕事上の悩みを相談したり、といった時が多くありました。このような関係から、仲間意識が芽生え、現在でも機会を通じお世話になっております。

昭和30年代の音響マンは、ホール音響の役目を他のセクションとの融和をはかるなかで、それぞれ頑張ってきたものです。

 

6. 昭和30年代の音響テクニック

さて、その頃の音響テクニックは、アコースティックサウンドそのもので、マイクアレンジも生音から求められた時代でした。ですから、ホール音響設備の基本がアコーステイックなものとなっていました。

当時の音楽ジャンルで、PAを必要とされたのは、ジヤズ、シャンソン、タンゴ、フォーク、歌謡曲、ミュージカル、等で今日のようにハイパワーサウンドが求められない時代でもありました。又、ウェスタン、ハワイアンのジヤンルにおいても、現在のリズム主体の音楽表現ではなく、メロディ優先といった時代でもありました。このような音楽媒体からもとめられたサウンドテクニックは、弱音楽器の集音がメインであったといえます。集音に使用するマイクロホンは、ダイナミック型、リボン型、コンデンサー型で、リボン型は取り扱いに慎重さが求められました。現在でもリボン型の名器といわれるRCA-77DXは、Off集音に強く、特に弦、コーラス、Vorcにはなくてはならないマイクロホンでもありました。

しかし、このマイクロホンの取り扱いは振動、風圧に弱く、マイクロホンに袋を被せて移動さ

 

 

 

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