ちんとした、お金をすくなくても、一銭でもとってお見せするには、やはり、素人の劇団だからという言訳は、たちません。やっぱり、ある程度、観るに堪えるだけのものに仕上げなくてはいけない。その為には過渡的に東京から、きちっとした先生を呼ぶ事だ、これは、最小限。僕ら、この道に長く入っていますから人脈だけはもっています。こういう仕事をするには、こういう理解を持ってくださる、しかも素晴らしい評価を得て、仕事をしてくださる先生、そういう立場で選びました。ですから、通常では、出来ない予算。まあ、本当でしたら、あの先生をそんな値段で、お呼びしちゃって、来たのって、あるかもしれないけど。
芸術家というのは不思議で、いい仕事に参加するというと、お金のことは、二の次、三の次という傾向があるんですね。本当に好い仕事ですよ、去年これだけの成果が得られましたよ、しかも町のほうは、一年目は、当初、ご祝儀予算が出たけど二年目はそうもいかない。
これは、私も公立の施設の運用にあたって感じた事ですけど、その施設の持っている条件というものが色色とございます。一つの特定の団体に偏るという事が出来ない。そうすると、二年、三年、そういった形で、それを丸抱えで後援するという事が出来ません。町のほうは、もう、最初、蓋だけは揚げた。
後は、あなた方、自主的に劇団として、自立しなさい。ただし、ある程度、公演の援助はします、補助はします、文化活動の一貫として。しかし、町が丸ごと出すという事はありません。
という事で、劇団をそのまま作りました。で、劇団の、町民の人の自主公演という今年の公演も、勿論大成功でした。去年出た人は、一年さらにもう一年と、磨きがかかってきています。
やっばり、アマチュアですから、中には、学校に行っているかた達は、もう来年は大学受験ですから、今年は、参加来ません、という人も出てきます。
或いは、去年一年、家庭をほっぽらかすという訳では無いけれども、ご主人のご飯を作るのも、御免なさいねと、言って稽古場に通っていた奥さんも、今年は、やっぱり、二年続けるという訳には行かなくなってしまった。ただし、まあ、劇団員としては、活動のお手伝いは出来ないけれど、なんとかして、その公演の一旦に、何か、お手伝いがしたい。ですから、去年は、大道具を作るにしても、専門の会社に頼みました。今年は、それを止めました。で、それで、自分達で、出来るだけ作るように、これは、美術デザイナーが、どういうふうに考えたか、予算がともかく少ない。で、良いものを作るには、どうしたら、いいか?
地方の事だから、東京で出来ない事をやろう。おそらく、竹の材料で、道具を作ろうよ。東京で、竹で仕込もうとすると、けっこうお金がかかるでしょうけれど、地方なら、山を持っている人がいるんじゃないか?あります。竹の職人も知っています。じゃあ、そこへ、竹の細いのをいくつも切ってもらって、竹の材料で道具を作りましょう。
皆さん、アマチュアですから、仕事が終わると、夜6時頃から学校の体育館借りて、そこへ、美術デザイナーの先生が来て、床一面にシートをひいて、図案を描いて、その通りに、竹を曲げて止めて、持って来てください。そういうふうにして、二カ月かかって、道具をコツコツ作った。その竹は、非常にナイーブな線が出る。しかも、出来上がったものに薄い紗をかけて、それが丁度、森のシーンの設定ですから、樹の葉の形をした色々な形の道具なんですね。それを飾ってみて、非常に幻想的な美しい舞台が出来あがった。
つまり、町の人の手で、それが出来たのです。なかには、大工さんもいました。開帳場作るのに、間帳場というのは、人の体重がかかる所で、危ない所ですから、きちんとした道具を作らなくてはいけない。
大工さんが三人ほどいまして、大工さんがそれを受け持つ。所謂、それは、サポーターと言って、普段、時間は、自由にとれないけれど、ともかく、少しでも劇団の為に、手伝える時があったら手伝います、というサポーターを何人か、何人かといっても、何十人ですね、養成して、養成してというか、そこに、来てもらって、衣装もそうです。つまり、今年はみんな、手作りで出来てしまった。ただし、指導者は、東京から先生を呼びました。でも、それが、つまり、出演者は、勿論、町民だけです。それで、歌って、踊って二時間のプログラムの公演が立派に出来ました。これは、一