に不得手だったんです。
たった1人生き残りましたのが、高橋圭三という男です。後は全部テレビから撤退してしまいました。仕方がなく若い私が先頭に立たざるを得なくなって、20代の終わりの頃には、心ならずもテレビの最先端に立たせられるという羽目になりました。しかし、その中でも、絶えず果してテレビというものは本当に文化なのだろうかということに、常に疑問を抱いておりました。
私達が日本の文化というときに何も超高層ビルを指さないんです。あんなものは世界中どこにもあるわけです。文化というと歴史の風雪に耐えてきたものをいうわけです。果して放送番組というものは、歴史の風雪に耐えるだけの力があるもんなんだろうかと。終わりって出るともうそこでエネルギーが終わりなんです。そうするとこういうものは果して文化と言い得るんだろうかという疑問を、テレビの当初からずっと持っておりました。私はそして旧制高校時代にふとしたことから、1人の知的ハンデを背負った12才ぐらいの女の子に巡り合いまして、この子から人間の本当の姿ってのを学びとらせてもらいました。
戦争で親を失った子供たちが収容されている孤児の施設だったんですが、そこに3才から13才までの子供が68人おりまして、その中の1人で12才ぐらいの女の子が全員の洗濯物を引き受けて一生懸命洗濯をしておりまた。朝から晩まで。その子の姿を見て、私は人間というのはどうやって生きなければならないのか、自分のために生きる、自分はこれでいいのかという反省に基づいた向上心と、人の為に生きてこそ人という2つの面が必要なんだということを、18才のその子に巡り会った青春のときからずっと思っていました。
そうすると、果して放送というものは自分のそういう気持ちを満たしてくれるものなんだろうかということにも、また、疑問を抱いておりました。
放送局を辞めたら、私は障害をもつ子供たちが集まって遊ぶ施設を東北の方へでもつくろうかと、そんなことを考えておりまた。
色々な情勢で、私はいわゆる定年というものを5年間も延ばさざるを得ませんでした。番組をつくって参りまして、私が辞めてしまいますと番組にいくつも穴があきますんで、NHK側から辞めてくれるなということで、定年を5年も延ばしてもうこれで辞めようとおもいました。テレビが始まる前から放送局にいて、なおかつNHK、民放通じて30年以上もやってるってのは当時私ぐらいのもんだったそうです。マスコミが、私の事をなんて書いたかっていうと、「また、テレビのシーラカンスが出てきた」って書きまして(笑)、これで辞めようと思いました。