ててるわけです。
しかし、その物置小屋のところへ行ったら電気がついている。1人のおじいさんがいるわけです。この人が茂七さんの子供で、茂八さんって人だったんです。私は「茂七さんの東雲楼のことを知ってますか。」って聞きましたら「いや、自分の子供の時のことだからよくわからない。」と、「だけども親戚その他の人から話はきいている。」ってんで、私はその人の話を全部聞きました。
そして、放送したんです。そうしたら、全国の大学から問い合わせがございまして、そしてその資料をよこせっていうんですね。そこで私は初めて「ああ、ラジオってのはこんなに瞬間に大勢の人のところへ届くのか。」と思いました。ですから、瞬間的なエネルギーっていうのは、放送には随分あるんだなと思っておりました。
そしてそのうちテレビが始まって参りまして、今の放送局の組織でございますと、NHK、民放にしましても、私のような番組の作り方は、細分化され多分できないだろうと思いますが、私はプランナーをやり、プロデューサーをやり、ディレクターもやり、アナウンサーもやりと、1人で何役もこなして参りました。
例えば、クイズの番組を作ろうといってクイズの番組をつくりますと、最初の2年半ぐらいは、スタッフが慣れるまで問題は全部自分で考え、美術のセットまで下書きは全部やり、そういうことまでやって参りました。ですから、一人で何役もやるってことは今の放送の中ではできないですが、とにかく放送に関する限り、照明から何から、例えばスタジオに入ります。花がおいてあります。そうするとその番組に合わなかったら「花を全部替えてくれ。」と、「何でそんな白い花を持ってきたんだ。今日の番組のイメージと全然合わないじゃないか。」って土壇場になって花を全部替えるとか、それからこの後ろにこう垂れ幕がございますが、その垂れ幕の皺までなおしました。
演劇評論家に安藤鶴夫さんって人がいらっしゃいました。亡くなられましたが。私がそうやって垂れ幕までなおして、四つんばいになってスタジオの小さなゴミまで拾って歩くんです。ロングで引いた時にゴミが映ってたら番組は全部ダメなんです。ですから、そういうゴミを拾って歩きました。テストなんてのは私はほとんどやりませんでした。それを見てですね、演劇評論家の安藤鶴夫さんが「今時こんな人がいたのか。」って涙を流したってことがございます。
私は舞台とかスタジオに関する限り、隅々まで自分の身体の中にそうやって覚えて参りました。そして、私は今度は海外へ参りまして、1年間外国をずっと歩いて、外国の放送局の人とも仕事をして参りました。そうすると、外国の放送局の人の仕事ぶりってのも向こうのセンス