学、旧制高校が最後まで困りましたのが、演劇部の復活を文部省が認めなかったということです。
つまり、戦前の学生演劇イコール赤だったんです。それを更にマッカーサー司令部は戦後日本が共産化することを恐れましたから、学校の演劇部を再開するということに非常に神経質で、最後まで演劇部の再開を渋ったわけです。私も何度か学校側と交渉いたしましたが、学校側がなかなか再開を言わないんです。私は最後に怒って、校長室のドアを蹴破ったことさえございます。それでもOKしないんで、私はしょうがないから、1人で「大日本演劇研究会」というのを作りました。「賛同するもの来い。」っていったらおっちょこちょいがやっぱりおりまして(笑)、3人集まって参りました。
これで最初の戦後演劇をやるというとこまでやってまいりました。大変動的な3年間を送りました。それが私にとっては素晴らしい青春を送らしてくれた結果になるんですが。
さて、今度は阿部先生を慕って大学へ参りましたが、高等学校の時、何にも勉強しておりませんので、大学の時に少しは静かな生活をしようと思いまして仙台へ参りました。ところが、仙台へ参りまして、どこに部屋を借りようかなと思って探しまして、やっと広瀬川のほとりで家を借りたんでございますが、その家の番地が、仙台市広瀬川橋の下5番地ってんです(笑)。友達に手紙書きますと、何でお前は橋の下に暮らしてんだ、そんなに落ちぶれたのかって言ってくるんです(笑)。ここに暮らしまして、今度は岩沼という田舎町に引っ越しました。もうこれは本を読むだけの生活でございました。ペラッと本をめくる音だけが、ページをめくる音だけが音、という非常に静かな生活をいたしました。ラジオなんてのは雑音以外の何者でもなくて、全く聴いたことがありませんでした。
ところが、ある時私は卒業間際になって東京へ遊びに行きましたときに、中学の友達にばったり会いました。彼が「ここを受ける。」って前のビルを指しました。「ここは何だ」っていったら「NHKだ。」って言うんですね。私、ほんとに「NHKって何?」って聞きました。そしたら「お前それほど知らないのか」っていうんです。私それほどラジオも聞いたこともないんです。
ここを受けるんだっていうから「じゃあ一生に1回ぐらい就職試験ってのを受けてみようか。」と思いまして、急いで学校へ行って願書を揃えて参りました。そしたら「どこ受けるんですか?」「どこ受けるんです?NHKを受けに来たんだ。」。そしたら中に色々あるというんです。記者、ここの知事さんが記者でございますが、それからディレクターとアナウンサーと事務と技術とこれだけ5つあると。「とにかく少ないとこへ入れて下さい。」って言ったらそれがアナ