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職員はほとんど不眠不休で、限られた車両をフル稼働し、荷降ろし荷積み、搬送作業にあたった。こうして震災1日目の夜は、避難所への物資の搬送にその精力のほとんどが割かれた。そして、翌日以降給食業者による供給体制が整う2月1日まで区の主要な業務となった。すでに19日の時点で区内の避難所は96カ所、3万9千人に達していた。

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ところで、全国から送り込まれる食料、水、衣料品等の救援物資は貴重な避難所の生命線であり、おかげで多くの避難住民が飢えと寒さをしのぐことができた。しかし、続々とトラックで運び込まれる物資の荷降ろし作業は、厳冬の深夜に及び、連日の搬送作業で疲労困ぱいの職員にとって大きな負担となった。通りがかりの人も、また次々に駆けつけてくれたボランティアも、これら物資の運搬に大きな力を発揮していただいたが、それにしても、震災当日から出勤している職員の疲労はピークに達していた。

この危機的状況は、区長が自衛隊に協力を要請し、隊員の方々が徹夜で荷降ろし作業を引き受けていただくことにより脱することができた。深夜、救援物資を満載したトラックが到着するたびに、若い隊員が一斉に飛び出し、みるみる間に、荷台の物資を降ろしていく、そのきびきびした作業は、実に頼もしく、かつ有り難かった。この自衛隊の荷降ろし作業は、深夜だけでなく、後に24時間体制に拡大されたが、これによって単に職員の負担が軽減されたばかりでなく、避難所への搬送についての組織的な分担体制、さらに区職員の勤務体制のローテーションを確立することが可能となり、区災害対策本部にとって大きな節目となった。

区にはこうした避難所への物資搬送以外に、区民と直に接する現場の最前線基地として、実に様々な要望が持ち込まれ、その対応に追われた。もちろんそのすべてに応えることはできなかったし、今もってこうしておけば良かったと悔やまれる点も少なくない。しかし、初期の混乱した状況下にあって、区の職員は精一杯のことをやったというのが実感である。そして、言うまでもなく、その陰には区職員以外の多くの人々の善意と協力という支えがあった。

中央区では、震災当初、他局からの応援職員が得られず、小学校等の避難所は4月に全国の自治体の応援職員の派遣があるまで、職員を常駐させることが出来なかった。にもかかわらず、大きな混乱もなく避難所が運営できたことは特筆すべき事柄である。これには、校長をはじめ現場の教職員、また、ボランティアの活躍に負うところが大きかったが、なによりも避難住民による自治組織が早くから出来あがり、そのリーダーに人材を得たことが大いに幸いした。

2月に入ってからは、避難所の物資等の対応のほかに、り災証明の発行、義援金の交付、り災証明に関する再調査、倒壊家屋の撤去及び申請受付等、本庁からは次々と震災直後の混乱期から本格的な復旧業務へ、いわば第2段階へと移行した時期である。区の全職員は、文字通り総動員体制で業務にあたった。

これらはいずれも、被災者の直接的な利害が伴うものだけに、時には窓口等で大きな混乱も生じた。現場の第一線の職員はもとより、責任者である担当課長の心労も並大抵ではなかった。が、これらの業務も東京都をはじめ全国の自治体の職員の方々の応援により、切り抜けることが出来た。特に長期間神戸に滞在し、市の職員以上の熱意をもって対応していただいた方々には、本当に頭の下がる思いであった。改めてお礼を申しあげたい。

以上、区の職員の立場から、主として震災直後の対応を中心に綴ってみた。この8カ月を振り返って、やはり今後に生かすべき教訓・課題は多い。

中でも、避難所の運営をはじめ様々な震災関連業務の遂行にあたって、区と各局との応援・連携のあり方、また、全国から送られてきた救援物資をめぐる受け入れ、配布

 

 

 

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