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状態かは全く不明である。いつもなら、市街地に向かう車で混み合う時間帯だが他に車はほとんど見かけない。途中、長田方面の上空が異様に黒く不気味であったが、それが火災による煙だったことは、後でわかったことである。

山麓バイパス布引トンネルを抜け出たとたんに目に飛び込んできた光景には、一瞬我が目を疑った。道路はいたるところ大きな亀裂が走り、信号機は消えたままだ。木造家屋のほとんどが倒壊し、普段見慣れたビルが今にも倒れんばかりに大きく傾いている。まるで映画のワンシーンを見ているかのような錯覚に陥った。そして我々3人は、今回の地震が、一瞬のうちに大都市を崩壊させたすさまじい規模のものであったことを思い知らされた。

午前9時20分、区役所に到着。庁舎はなんとか無事だったが、2階以上の各階はほとんどの書架、ロッカーが転倒し、机も麻雀パイをかきまぜたかの様で足の踏場もない。壁面もいたるところに亀裂が走り、コンクリートの塊が散乱している。もし、勤務中に震災が発生していたら、職員にも相当な犠牲者が出ていたに違いない。

この時刻に区役所にたどりついた職員はまだ僅かであり、停電したままの薄暗い事務室で皆、なかば放心状態の様子であった。ともかく、午前10時に来ている職員全員を取り合えず1階の福祉事務所に集まるよう指示する。区庁舎には保健所、福祉事務所を合わせて約400人が勤務しているが、その時点で集まった職員は30数人、約1割程度であった。我々のように被害の少なかった西北神から車で来た者がほとんどで、他の職員は自宅から徒歩で区役所に向かわざるを得なかった。

今回の震災のような大災害時、即ち、すべての交通機関が麻痺状態で、しかも中央区のようにほとんどの職員が職場から遠隔地に居住し、加えて職員も少なからず被害を受けた状況の中で初動体制のための職員をいかに召集し、確保していくかは今後解決すべきかつ困難な課題である。そして、それは神戸のみならず、大都市共通の課題でもあろう。

さて、1階に区対策本部を設置することを決定、今後の情報連絡に備えて関係機関の電話番号表を作成し、壁面に掲出する。まちづくり推進課の池上君に区内の被害状況を撮影するよう指示をした。しかし、正直なところ、一体何から手をつければよいか、わからなかった。

誰もが予想しえなかった未曾有の大震災が発生したのだ。地域防災計画は職務分担上のガイドラインにはなっても、今回のマニュアルとしては全く役に立たない。さらに、本庁(市役所)からの指示も、状況からして到底期待しえない。すべてはここにいる限られた職員で判断し、行動せねばならない。これからどのように推移していくのか不安とともに、身の引き締まる思いであった。

 

・どんどん膨れあがる避難者数

区の対策本部として、まず急がれたのは避難所の開設と避難者数の把握であり、そのため職員が手分けをして学校等の指定避難所に走った。ある学校ではすでに避難者があふれ、止むなく近くの高校や公共施設等に受け入れを要請し、誘導した。また公園にも住民が自主的に避難しテントを張っているとの情報があり、改めて区内の主要な公園を巡回した。こうして、午後2時過ぎには、避難箇所数30、避難者数6千人という状況を把握し、本庁に第一報を送った。ただ、この数字はあくまでその時点での“瞬間的状況”でしかない。実際には、すべてのライフラインが停止し、また余震の不安に駆られた住民が、どんどん避難所に押し寄せており、後でわかったことだが、わずか数時間にはほぼ2倍に膨れ上がっていた。さらに、深夜(18日午前0時)には2万人に達するという状況であった。

一方本庁では、市内の給食業者がほぼ壊滅状態であったため、姫路、加古川、加西、といった市外の業者に発注確保の必死の努力が続けられていた。その結果、17日午後4時頃4,400個のおにぎりが区に届けられた。しかし、その時点では避難者数6千人という数字を基に各避難所に配分、搬送を行ったため、一部の避難所では大混乱が生じることとなった。幸いにもその後、パン、弁当、乾パン、毛布などの救援物資が深夜にかけて到着し、最低限の食料と毛布を運び込むことができた。

 

 

 

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