日本財団 図書館


●対談● 21世紀へ向かう大きな流れ

 

上垣 聡(指揮者)・寺崎裕則

 

音楽と芝居が一体化した音楽劇を

寺崎 上垣さんは、僕の人生の後半を変えてしまったフェルゼンシュタインのコーミッシェオーパーにいらしたわけで、不思議な縁だなあと嬉しく思っているんです。現在はミュージカルの指揮は勿論のこと、室内楽やプロのオーケストラで活躍されている一方で、アマチュアのオーケストラもなさっているそうですね。

上垣 ええ、二団体だけなんですが、アマチュアのとてもいいところは、皆が楽しんでやってるというところですね。実は僕が音楽を始めてからいろいろ見てる中で、日本で実際オペラなどを見ると、何か欠けている部分があるような気がしていたんです。それが何かというところまで追求しなかったんですが、コーミッシェオーパーに行って、それがはっきりした。

寺崎 それは何だったんですか。

上垣 オペラというのは、歌を歌えばいい、というものじゃなく、全体のドラマがあって、それがそのままお客さんに伝わるものだ、ということ。そこが一番大きな違いでした。どうしてもいわゆる古典的なオペラだと不必要に前に出てきて歌うとか、もう少し不自然じゃない感じにならないものだろうか、と思っていましたから、その違いがコーミッシェオーバーの大きな魅力でした。僕はコーミッシェオーバーでオペラを好きになったんです。日本に戻ってきて、またオペラとか見出したんですが、歌は勿論、皆さんうまいんですけれど、どうしてもドラマの部分が欠けちゃう。日本オペレッタ協会のはうは、たまたま後輩の榊原(徹)君から話があって、きっとそういう古典的な演出だろうな、と思っていたのですが……。ところが来てみると、全く違う創造方法、視点でオペラやオペレッタをみている。それが分かった時に、これは面白いぞ、と。それで話を聞くと寺崎先生はコーミッシェオーバーにいらっしゃった。なんだそうだったのか、ということだったんです(笑)。

本来、音楽と芝居がもっと一体化して、芝居のテンポで音楽が流れ、音楽のテンポで芝居が流れなくちゃいけないと思うのですが、古典的な演出は、全部音楽のテンポでしか流れないように見えます。一部のオペラのマニアの人には分かるかもしれないけれど、やはり一般の人には分かりにくいですよ。

寺崎 まさにおっしゃる通りです。僕自身、フェルゼンシュタインに出逢うまでは、ほんの僅かの機会にしか日本のオペラ界とは接触がなくて、松浦竹夫さんの演出助手で『ロング・クリスマス・ディナー』をやった時に、あなたが感じたことを僕はすごく感じて、音楽は好きだったけれど、オペラというのは僕のやる世界じゃないな、と。それでフェルゼンシュタインと出逢って、日本のオペラに足りないものは音楽の中のドラマだ、と分かった。それまでのオペラの中では、王と日の悦楽が大きな部分を占めていたんだけれど、心の悦当というものが、もう一つ足りない。耳と目と心の悦楽があててこそ初めて、あの壮大なる総合芸術であるオペラあるいはオペレッタが生きる。フェルゼンシュタインはその心の悦箋という部分を徹底的にやるんです。僕はそれにものすごく共感したわけです。結局、音楽・劇=ドラマ・ベル・ムジカなわけですから、ドラマとムジカが一体でなくちゃいけないんですよ。又、それをきちっと書いた人たち、モーツァルトやヴェルディがいて、そういう人たちの音楽劇は、まさに音秀で人間のほんとうの姿を描くドラマなわけでしょう。それを忘れちゃってる。登場人物の、役の性格の上で音楽を作っていったわけなのに、それが全部落ちちゃっている。役の性根をつかまえて、役になりきって歌わないから、ドラマが出来ない。残念ながら日本には、オペラハウスもなければ伝統もないんですから、そういうことがちゃんと分かった演出家と指揮者につかない限り、音楽とドラマの関わり、心の悦楽を創る創造方法は分からないですよ。日本の場合、どうやって音楽で役の性格を表現していくかという手段を教わる機会が非常に少ないんですね。

上垣 日本だけじゃなくて世界的にいえることだと思います。全然切り離して勉強する。一つのオペラを勉強するにしてもまず音楽だけを勉強するという形。あとは、曲の歴史的な背景などはやるんですが、音楽の中で展開されているドラマ壱深く掘り下げて勉強していける環境はないと思う。やっぱり

 

022-1.gif

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION