ら、これは大変なことです。コーミッシェオーパーなんかだと、コーラスの人っていうと、声の出る限りの70才ぐらいの人から、若い人は17へ/18才までという、層がすごく厚いんですよ。それが日本だとコーラスじゃ食えないから、音楽学校を出ても、半分別の仕事してて半分音楽やってる、そういう人たちを訓練しなくちゃならないんです。
関根 コーラスの人たちこそ毎日舞台に立って経験を積まないと味が出てこないんですよね。ソリストがいくら頑張っても日本のオペラになかなか深みが出てこないのは、コーラスのあり方に大きな問題が一つあるわけです。
寺崎 今のウィーン・シュターツオーパーがだんだん駄目になってきているというのは、もう一つそこなんですよ。昔のようにきちっとした契約でやれなくなってきちゃった。シュターツオーパーは、ウィーン・フィルとコーラスの人たちでウィーンの匂いを出してたんですがね。それが今なくなっている。ウィーンでさえお金がないからです。
関根 オーケストラとコーラスだけは最低保っていてほしいですね。ソロを支える音楽的な厚みだけでなく、合唱団員がステージにただゾロっと立っているだけで劇的雰囲気を漂わせ、そこの劇場独自の香りを感じさせるなんて、とっても素敵なことですよね。それこそ劇場の専属としてプロフェッショナルな経験を長く積まなければならない。
寺崎 ほんとうにおっしゃる通りです。僕がフェルゼンシュタインに出逢って、70年代から85年にかけて、東独、いわゆる昔のドイツやウィーンのオペラのオーソドックスな伝統、ウィーンのオペレッタのオーソドックスな伝統を一番見られたということは幸せなんです。ですから今、私がやっていることは向こうの伝統を体で知って、それをどうやって日本人の味付けをしていくかってことなんです。
関根 それを日本に違和感がないように日本語にしてなさろうとしているってことは大事なことだと思うんです。でも究極的には、どんなふうにやっても所詮は向こうのものですよね。ですからやっぱり日本人のオペレッタがなければいけないと思うんです、最終的には。
寺崎 勿論そうです。しかし、まだまだ早い。それと、そういう音楽、台本を書いてくれる人がまだ見つからないんです。ほんとうは山田洋次さんの『寅さん』のような、人間がきちっと描かれているものを芝居にして、美しいメロディの音楽を創りオペレッタにしたら、すごく面白いと思う。しかし同時に、どうやったら今の日本の社会というものをオペレッタにしていかれるか、ということが非常に難しい。今の社会ではんとうの意味の喜劇を創るのはとても難しいですね。実はこれ迄、僕が全部台本を害いていたんですが、来年2月の『フラウ・ルナ―月光夫人』は劇作家の八木柊一郎さんに書いて頂くんです。『フラウ・ルナ―月光夫人』は1899年の12月31日にベルリンのメトロポール・テアターで上演された、気球で月へ行く詣で、20世紀へのメッセージなんです。今は月へ行っても何もないことは分かってしまったわけですけれど、その中で、21世紀へのメッセージを八木さんに頼もうと……。八木さんだったら非常にソフイスティケイトで、しかも、あまり難しくない形で苦いてくれるでしょうし、そして音楽をものすごくよく知ってらっしゃる方だから、僕が書くより面白いと思った。そういう意味においては少しずつ日本の土からのオペレッタヘ向かっていくかもしれないですね。しかし、今僕がやろうとしていることは、まだもう少し、ウィーンのオペレッタの伝統を踏まえた上で、絶対日本人に合うという形のものを、日本ならではのオペレッタをやっていかなくてはならないと思っているんです。
所詮、向こうのものかもしれないけれど、西洋の音楽だって日本人が今やここまで享受し、あそこまで演奏出来るわけですから‥‥‥。ただ違うところは、向こうのものに似せよう似せようとしたら駄目なんですよ。だからイタリア・オペラにしても、ヴェルディの音は絶対必要なんですが、しかし肉体はイタリア人にはなれないんですから。それを無理に似せて‥・…昔の新劇の赤毛物の感じになったら何ともおかしい。ウソっぼいというのは駄目なんです。だから、日本人が演じて少しもおかしくないという、観客に違和感を感じさせない、ごく自然で、日本の土から生まれたようなものをこしらえたいんです。
関根 ただ歌い手とか演奏家の問題にしましても、向こうのものばかり練習していると、表現力が本格的にならないということがあるんです。声楽でも器楽でも、自国の作品をやることで、母国語から生まれた音楽のニュアンスとか、民族的な感性が、かけがえのない自分のコトバとして磨かれて、表現が十分な説得力をもつようになる。オペレッタもそうなのではないかと…。だから日本の作品と並行してやっていかないと表現力が本格的にならないのではないかと思うんです。
寺崎 それは確かにそういうこともいえるけど、外国のものも、作曲家と台本作家の精神を把え、その役になりきり、彼我の距離をしっかり見据えて日本人が自然に歌い演じてやれば、日本ならではのものになります。いうならば、西洋の素材をよく研究し、洗い直し、日本の味付けをし、日本ならではのものを創れば、本格的になりますよ。
20年目の新たなスタート
関根 私なんかも、寺崎さんがやってらっしゃることは理論的には素晴らしいと思うんですが、でも聴き手としては正直に言って、まだ抵抗感があるのです。
寺崎 その抵抗というのは、どういった点ですか?
関根 しっくりこないというんでしょうか。作品を表面的にしか聞き取れないことがあって、深みがなかなか見えてこないんです。寺崎さんのなさろうとしていることが、なかなか伝わってこないもどかしさがあります。オペラだって厳密にいえば違和感はあるんだけれど、ただ見慣れていると、こういうものかってことでそれなりに楽しめる。オペレッタは上演が少ないですからね。外来オペレッタなんかが来て、良い公演なら勿論大いに楽しめるのですが、たまたま燃焼不十分の舞台だったりすると、何やら楽しそうなことをやってはい