クの歌役者を育てたかった。クセがついていない真っ新な歌い手の人たちの中から芝居心のある人を探してひっぱってきて、音楽で人間のほんとうの姿を描くドラマを、音楽で人間を描くということを徹底的に教えていく。難しいのはせりふは何とか役の性根でしゃべるが、歌になると途端に歌い手になっちゃうんですよ。これは困る。役の性根で歌ってくれなくちゃ‥。
関根 音楽の教育がまず、イタリア歌曲にカタカナぶって歌うことから始まるでしょう。だからやっぱりそうなってしまうんでしょうか。
寺崎 日本の場合、歌と、芝居とか踊りというものを別々に教えてるから駄目なんです。共通性をもたせて教えていくということをしない。だから大学が向こうのホッホシューレみたいになってくるといい。はんとうに専門にやる人には、大学へ入った時点から歌の発声と同じに肉体訓練とせりぶと踊りを教えて‥…・。そこで勉強した人が国立劇場なんかの養成所、あるいはうちみたいな所に入って、そこで鍛えられ育っていって、ステージで食べられるような状況になっていくと、ほんとうのお客を楽しませるエンターテイナーのクラシックの歌役者が生まれるんですけれどね。“育てる”ということを日本ははんとうにしていないですね。学校教育だけで終ってしまう。
それともう一つ、日本には大人の男の人たちが女性を連れて劇場へ来るという風習が戦後、欠落してしまった。だからヨーロッパのような大人のソサエティを日本にもう一度蘇らせなかったら、絶対にただのエコノミック・アニマルになってしまう。オペレッタというのは爛熱した大人の文化から生まれたものだから、大人の人情の機微とか大人の男と女の心の戦いとかが、非常に美しい音楽の中に見事に描かれている。大人の男の人たちが見に来るような知的大衆娯楽には、オペレッタがピッタリなんです。分かりやすくて楽しくて面白くて、そして親しみやすくて、深くて、メロディが美しくて‥・。
関根 オペラではなくオペレッタを選ばれたのには、その“男”というところもあるわけですね。日本の男性でオペラを見に行くというと、まずワグネリアンがいますね。ワーグナーつてわりと男の人が行きますよね。惹かれるものがあるんだと思うんですが、そういう聴衆層とオペレッタの聴衆層とは少々断絶しているような気がします。また、特にワーグナーと限らなくても、音楽が好き、音楽劇が好きなんだけれど、オペレッタの素晴らしさを体験したことがないという人が男性にも女性にもまだまだたくさんいて、オペレッタの聴衆層がなかなか広がっていかないんだと思います。
寺崎 ワーグナーの人たちは割合、アカデミックな人たちが多いように思うんです。オペレッタはもっともっと庶民的な形になるべきなんです。でもお陰様で、うちの場合、お客様が千差万別で実にバラエティに富んでいる。客ダネがいいんです。ほんとはそれがもっともっと広まって、東京でオペレッタを上演すれば1万人集まるようになれば一番いいんですけれど。これはまだまだあと何年かかりますか‥‥‥。歌役者が育って、しかもそれが大人の歌役者で、そしてお客を楽しませるエンターテイナーになること。いくらオペラでも一夕の娯楽なんですから。そしてロングラン出来る文化状況をつくること。
作品の面白さを伝えた『こうもり』
関根 世間の大勢では、楽しませるということを、表面的なクスグリみたいな所でやっているのが多いですね。その場では面白いけれど、それだけの話で終ってしまう。やはり作品のほんとうの面白さを伝えてもらわないと‥…・。そういう意味で作品をほんとうに深めて、面白さを分からせて頂いたのは、この間の『こうもり』だと思うんです。出演者のアンサンブルが揃ってきてフレッシュな魅力があったこと、舞台装置の美しさ、よく吟味された分かりやすい台本などがまず目を引きましたが、私が一番感動したのは、ただ笑って楽しんで終りというのではなくて、この作品が初演された1874年当時のウィーンの時代の雰囲気を何となく感じさせて、しかも、その退廃的な気分にひたりきるのではなく、どこかクールで健全な批判精神を感じさせたことです。以前に観たフェルゼンシュタイン演出のオペレッタ映画にも、そうした批判精神が脈打っていたのを思い出しました。
寺崎 それは嬉しいですね。日本の場合、オペレッタというとすぐ『メリー・ウイドウ』と『こうもり』をやるんですけれど、僕は怖くてとても出来なかった。一番難しいですよ。だから大人の歌役者が、ほんとうに屈指のベルカントの歌い手たちがごく自然にしゃべり、ごく自然に動いていけるだけの実力をもたなかったら『こうもり』は面白くないんです。
この間の『こうもり』では、僕は全部オリジナルを追って、それで12月31日の昼から、元旦の朝までという、いわゆる古典劇の三単一の法則でやったわけです。
それから『こうもり』のドラマトゥルギーというものは大胆ですよね。いわゆるコンメディア・デッラルテ(中世仮面即興劇)の根っこをもっていながら、仮面をはずしても、ああいう芝居が出来るということです。
二幕で、招待状をもらったアイゼンシュタインのファミリーが来る前に、オルロフスキーの所に集まってくる人たちに、これは劇中劇であることを種明かししちゃうんです。そして、あなた方もその一員に加わってくれということを、僕は敢えて言葉にした。おそらくヨーロッパでは、昔は、そういうせりふがなくても分かったんだと思う。種明かしをされているという前提のもとに皆いるわけで、彼らがどう化けるかということに、コーラスの人たちがものすごい反応を示したはずなんです。そうすると違いがはっきり分かるから、面白くなる。コーラスはお客の代表なわけですよ。そういうこ重の楽しさがあのドラマにはあるんです。それがなかったらこ幕は面白くない。ところが日本の場合は、あそこであれだけの説明をしておかないと、もう一つ見えてこない。そしてコーラスの人たちにそれだけの演技を徹底的に教え込まなくちゃいけない。日本にはプロのコーラスの人がわずかしかいないか