私たちのアジア、議論というのが中国とは本当はどうなのかというご質問がありましたけれども、人権の概念とか、環境の概念とか、明らかな落差があって、それに対して例えばアメリカは、人権の著しい侵害があるところでつくられた製品であるとか、あるいは環境の著しい破壊があるところでつくられた工業製品に対して、輸入の時に環境や人権の関税をかけて、その格差を埋めようという議論があったり、部分的に実行されたりしているわけですが、それもそういう国家のシステムによってやることが賢明なのか、あるいは市民社会のネットワークによるいろいろな努力が重なることによってすべき点はあるのではないかということなんです。
その時に、中国の人権問題というのは結局製品に転嫁された場合は経済問題になるのですけれども、その経済的な利害に基づいて、それを国家が関税なり、いろいろな形で規制するというよりは、長期的にはそれぞれのマーケットと重なっている社会というものがそれをレギュレートしていく。レギュレートリー・サーベイランス(regulatory surveillance)のシステムを、先進社会はそれなりに例えばアジアに比べるといろいろ持っているわけですが、そういうものをとりあえず整えていくということが念頭にあります。
●リード
ーつだけ申し上げたいと思います。恐らく主催者のほうから、何回か言っていらっしゃるのですけれども、この会議は非常に楽観主義的な、アジアについての楽観主義的なアイデアが広がっていた時にこれが計画されたと、それで実際には今の時代にはなかなか妥当性が薄くなってきたかもしれないとおっしゃるのですけれども、そんなことはないと思うのです。危機だからこそこういった会議が必要なのではないか、フォーラムが必要なのではないかと思うです。むしろ我々は危機の時代にあるからこそ、こういった「アジアの叡知会議」、将来を見据える会議を開かなければいけないと思うのです。
我々は最終的に自己敗北を期すような解決策、自己破壊をするような解決策、首を絞めるようなことをやってはいけないと思うわけで、そういったことでこういった会議をして話し合いをすることは大事だと思うのです。
ただ、こういった会議を開くことが非常に重要だと、そしてその中から我々はある種の多国的、多元的な解決策を見出していくこと、それがよリバランスのとれたものであることが最も必要なのではないかと、私は思っております。
●白石
ごく簡単に2点。
一つは、アジアが一つの経済圏になるのか、考えていいのかどうかという話ですが、私はアジア太平洋という形で経済圏はすでに過去50年にわたって編成されておりますので、恐らくそれで考えるほうがいいのではないだろうかというのが第1点です。
第2は中国の問題ですけれども、昨日私が申し上げたことですけれども、少なくとも過去500年の歴史を見ますと、過去500年に3度、商業の時代がありまして、そのうち最初の2回の商業の時代には中国は不安定化しました。中国をめぐる論調で、ひょっとすると2020年とか2030年には中国が超大国になるのではないかというふうによく書かれておりますけれども、私はむしろ逆のことを心配したほうがいいのではないだろうかと考えております。
●五百旗頭
ありがとうございました。
海のアジアの中で中国の大陸国家としての権力をそう恐れてばかりいる必要もないだろうというコメントでした。
一言、印象を言うならば、誠に多岐にわたる話でした。「4つのレベルだ、いや、5つのレベルだ」という話がありました。今、 リードさんはこの会議が危機の起こる前の楽観主義の中で準備された、そして開催時には危機があったと言いましたが、そのような事態にもかかわらず基本的にここでの論調は楽観主義である。つまリローカルなもの、土着的なもの、それはグローバリズムの中で光を与えられ、活性化し、可能性を見出していくことができるのだという基本的なスタンスにおいて共通していたのではないかというのが、このセッションを司会していて、私の印象でございます。
長い間、ご協力、どうもありがとうございました。