不可能です。市場には、市民社会の様々な要素やルールがあるからです。ルールをインターナショナリズムや地域主義で作り、私たち自身のルールを構築する必要があります。キッシンジャーの言う、向こうみずな市場参入者や金融資本による媒介が私たちの社会を破壊することはまずありません。アジアにおいて、いわゆる資本主義、自由化、そしてグローバリゼーションが、またもや経済危機を政治危機にまで発展させてしまったことは誠に残念です。東南アジアは前途多難でしょう。
●座長:五百旗頭
危機への対処をめぐるナショナルなレベル、そして地域でのレベル、グローバルなレベル、その間の緊張関係が議論すべき大きな問題だろうと思います。
ナンディさんからよろしくお願いいたします。
●ナンディ
人間が完壁な社会制度や理想的なイデオロギーをなくすことができるとは思えません。いかなる社会制度にも欠陥があり、代償を伴います。発展のための研究にはすべて代償がつきものです。国家資本主義にも代償が伴います。社会主義体制にも代償が伴いました。このグローバリゼーションにも代償が伴うかも知れません。私は、自分たちの持ち物をすべてひとつのバスケットに投げ込むような制度や思想には極めて懐疑的です。この世における個人の役割を、消費者、物流、観光客の三つだけに限定するようなグローバリゼーションには、極めて懐疑的です。人間の役割をこれら三つの役割だけに限定することはできません。
人は声高に不満をぶつけます。好むと好まざるとを問わず、その社会に対する不満の叫びは必ず文化的な言語によって提示されるのです。我々がこの叫びに対する健全な対処の仕方がわからない場合には、他の地域ですでに見られたように、文化的変革が台頭することになるでしょう。
文化に権利を与えることは簡単です。スハルト大統領がインドネシアの価値を代表しているとは思えません。この二つは同時に成立しないのが当然であり、全く別のことです。また、マハティール・モハネドが、アジアの価値を代表しているとは思えません。アジアの価値を創造する権利を、アジアの市民に返さなくてはなりません。権利の付与には様々な形があります。ほんの一年前、小作農家が「ニームマルゴサ」というインド産の苗をめぐる裁判を、米国の法廷に提訴しました。世界15か国で少なくとも10億人が、2,000年もの間、この「ニームマルゴサ」を使用しています。仏教経典やヒンズー経典にも、必ずニームマルゴサが登場します。それなのに、現代の小作農家からこの苗が奪われているのです。小作農家は告訴し、地方裁判所で敗訴しました。現在控訴中と考えられます。ニームマルゴサを育てたインドの小作農家が特許を取得できなかったことは、誰にどのような権利を与えるかということに問題があることを意味します。市場経済においても同様に、民族の権利、個人の権利という問題が常にあるのです。
最後に、もし歴史と言っても良いのなら、私たちの時代の歴史は異なった様々な記述の仕方をすることができます。語りという言葉を使うのがよいなら、私たちの時代の語りは、異なった様々な記述の仕方をすることができます。私は、文化というものによって、国民国家システムからも国際政治経済からもある程度独立している私たちの時代の物語を記述することができると思います。将来、この語りが必要となるかも知れません。過去を振り返り、過去を再解釈するために、また、よりよい社会制度やよりよい政治経済、そしてよりよい社会の概念を生み出すために参考となる語りが、今の私たちには必要でなくとも、少なくとも次の世代には必要となるでしょう。
●李
田中先生の基本的な質問は、例えば文化や価値を決める権利もシティズンに渡したほうがいいというお話もありましたが、その場合のシティズン、市民とは一体誰なのか。人間はいろいろな帽子をかぶっていますから、国民でもあり、国家の一部でもあり、有権者であり、消費者であります。例えば去年も韓国で日本文化の輸入をどうするのかという議論を少ししたことがあるのですが、その時、問題になるのが日本的価値とかいろいろくっついたものがむやみに入ってくるのはよくないので、国家が規制すべきだという議論が今の立場なんです。これも、いろいろな問題があるのです。つまり韓国の社会に合わないいろいろなものがそこにくっついているわけです。例えば日本製のゲームソフトに「任那日本府」が明示されていたり、韓国でそういう問題があった時に、それは国家が、政府が規制するのか、あるいは私の議論からすると、そういうものは国家が水際で関税とか税関で規制するのではなくて、韓国の社会に入った場合に、例えば市民団体であるとか、消費者団体であるとか、そのネットワークによって機能的に規制すべきであって、それを一緒にして国という国境でとじるべきではないということなんです。
あるいはもう一つ、それは国際関係にも別の形で影響しますけれども、例えば中国問題をどうするのか。