測されたよりは今のところは穏やかな反応なわけです。より激烈なナショナリズムの反応が出てきても不思議ではない状況ですが、今のところ、韓国の場合は、完全に切り離したり、タイムアウトしようとする議論というのは相対的に弱いような気がするのです。それは多分韓国社会がすでにグローバルなエコノミーと政治にかなり深く組まれていますので、そう簡単な問題ではないということでありますし、社会のそれぞれの部分がグローバライゼーションにリスクとともにかなりの利益も既得権として持っているからだろうと思います。
そういう状況で考えますと、特にこれからのアジアの関係というものを考える時にも、古典的に領土とか主権とか国家に対する執着が非常に強いアジアにおいて、その国家間関係だけに還元してしまうと、処理しきれない問題がもうすでにオーバーフローしていますし、また国家というものは往々にして対立誘発的、ぎくしゃくしやすい。そういうものだということを考えますと、国家以外の、それぞれのアジアの国において着実にこの20年ぐらいに成長したいわゆる市民社会という部分がありますが、その部分間のリンケージというものをどのように強めていくのかというのが大きな課題だろうというのは、例えば日韓関係を見ても切実に考えるわけであります。竹島領有問題というのがありますけれども、それも国家間関係ではなかなからちがあかないですし、まだそれぞれの市民社会が、市民社会と言った時にジャーナリズムが入るわけですけれども、それぞれ日本と韓国のジャーナリズムが非常に国家利益だとか、ナショナリズムにまだとりこになっていまして、両方のマスコミが一方的な報道でほとんど終始しているわけです。
ですから、それぞれの言葉で、それぞれの新聞だけ読んでいる人は相手の理不尽な態度に対してみんな怒っているわけなんですが、でも両方を伝えるジャーナリズムがなぜ育たないのかというのが、個人的に非常に疑問ともどかしさを感じたわけであります。本当の意味で、よリー歩市民社会の連携が進めば、ある意味では両方伝えられるジャーナリズムが、優秀な早稲田出身の方によって生まれるかもしれませんし、そういう役割がある意味では象徴的に必要にされている例なのではないかと思います。
やはりグローバライゼーションの時代においても、私はナショナリズムは完全になくなるとは思いません。グローバル化すればするほど人間には2つの本能があって、人間には“センス・オブ・ディファレンス”というものを追求するものがあるし、“センス・オブ・セイムネス”、同じ人類として、ほかの人と同じようなものをしたい、考えたいという本能的な志向がある。それがグローバライゼーションを進めていくのだと思いますが、それと同時に、やはり自分はどこか違うのだということを本能のもう一つとして持っているのが人間だとしますと、それに基づいて、いかにグローバライゼーションが進行しても、やはり文化的な意味での独自性、国家的独自性が存在し続けるだろうと思います。アジアにおいてはまだ日本、特に韓国を見ますと、不十分なような気がしまして、そういう共通の価値を基盤にして、文化的独自性として、国家的独自性というものを再定義していく過程が、とりあえず私たちにとっては緊急に要求される課題なのではないだろうかと、円を中心とした安定した通貨圏をつくるためにも、そのような作業が必要だろうということを申し上げて、私のお話を終わりにしたいと思います。
●座長:五百旗頭
李さんには2つの報告をしていただいた感があります。あらかじめペーパーで用意していただいたお話は、三権分立という言葉がありますが、司法、立法、行政というのではなくて、もっと大きな社会全体の国家、市場、そして市民社会という大きな三権分立の提起をしていただき、さらに李さん自身のお国である韓国をケースとしながら、ナショナリズムとリージョナリズムとグローバリズムという大きな重層性、そしてその中で市民社会が国境を越えて広がらなければならないと、そういうお話をしていただきました。私は学会や国際会議でよく李さんとご一緒いたしますが、今まで聞いた中で一番大きなお話でございました。
というわけで、ナンディ先生の文化に軸を置いた非常に大きな多様性を可能にする市民社会、シティズンシップのお話、そして今の李さんの2つのお話、この2つからどういう議論に持っていくかというところは、 2人のコメンテーターにかなり拠っております。
まず、リードさん、お願いいたします。
●アンソニー・リード(オーストラリア、オーストラリア国立大学アジア太平洋研究所東南アジア史教授)