は1970年代、80年代に入って、一斉にもう一つの変化を経験することになります。それも一言で言えば世界各地において強い国家というものが一連の退場、退いていく過程が見られるということであります。これは別にポランニーが言っているわけではなくて、彼が言っていることを応用するとそうではないかということであります。
ですから、まず、ニューディール的な体制が成立したいわゆる先進諸国において、80年代から新保守主義、あるいは新自由主義と呼ばれる運動、思想が生まれて、規制緩和、脱規制と呼ばれるものが一斉に展開する。また、それとほぼ同時に、第3世界の成功例を支えた開発独裁と呼ばれる体制が一連の後退を経験する。第3世界の民主化の第3の波というのは、この70年代、80年代に起きるわけであります。これも個別に論じられやすいんですけれども、ある意味で強い国家の退場という面では文脈を共通にしているのではないかと思われるわけです。最終的には社会主義体制、社会主義計画経済というものが劇的に崩れていくわけなんです。このように見ると、20世紀の初めに市場から国家へと大きく動いた振り子が、もう一度20世紀の後半になって市場の方に振り戻しになるような、そういう運動を感じるわけです。
なぜそういうことが起きたのか、いろんな要因があると思いますし、列挙するときりがないと思うんですが、いわゆる国際政治、経済の観点からすると、2つ大きくあると思います。
1つは、ベトナム戦争の終結であるとか冷戦の変容などに象徴されるように、もはや世界戦争、世界大戦というものは不可能になったというのが70年代からの一つの共通認識であり、より重要なのは、経済が、情報革命などによって国境を自由に飛び越える、そのようなボーダーレス、ソフトな経済になったというのが大きな要因だろうと言われているわけです。それによって国家そのものが支え切れなくなって、みずから退かざるを得なくなったというのがそれぞれの第1、第2、第3世界において共通して起きた現象ではないのかということなんですね。乱暴な議論だと思いますが、これをいろんな人が名づけて、第2の大転換ではないのかということを言われているわけです。
そういう中で、今日本においても、韓国においてもそうですが、アメリカにおいてはもっとそうでありましたし、このマーケットを賛美する声、あるいは規制緩和というのは呪文のようにどこに行っても賛美一色の大合唱があり、官僚たたきというのは世界的に流行する、ということとであります。しかし、また原点に戻ってよく考えてみると、市場そのものは決して予定調和的なものでもなくて、安定性そのものを保証するものではないというのは依然として事実として残るわけなんですね。ですから、規制緩和で東大法学部出身の官僚をたたいて、彼らから権限を奪って慶応出身の政治家に渡したとして、その政治家が官僚より有効で公正だという保証はどこにもなくて、かえってヘーゲリアン的に考えると、市民社会、市場というのはより非道徳的なものであって、より個別利益によって分断されているものなのではないかというのが、多分今日本の官僚の積もりに積もった感情だろうと思うんですね。そうするとこれが万能との解決策ではないというのは明らかでありまして、多分そういう問題に対する揺れ戻しが部分的に見られて、アメリカで民主党が政権の座につき、イギリスで保守党にかわって労働党が政権の座につき、ヨーロッパに社会民主主義、違う形ですけれども、そういうものがルネッサンスのように語られるというのも、そういう現象と関係があるのではないかというふうに考えるわけなんです。
こう考えますと、やはり、そこである種の盲点は、ポランニーの議論からそれだけにとどまっていると、永遠に国家かマーケットか、ステイトなのかマーケットなのかという2極を往来するしかないような、そういう問題点を感じるわけであります。
そこで、一歩路みとどまって考えますと、国家もマーケットもある意味では近代化の両面だと、モダニティー、あるいはモダンステイツをつくるということ、近代というものは両面の顔を持つものだろうと思うんですが、しかしよく考えてみますと近代には、あるいは近代社会にはもう一つの側面、顔というものがあって、それがシビルソサエティーと表現されるものではなかろうかということなんですね。いろんな政治学者、思想家などは通常は国家と社会、国家と市民社会というように2分法で言っておりまして、そのシビルソサエティーの中にマーケットを含めて、非政府のものを全部一緒にしている傾向があるんです。しかし、よく考えてみますと、やはり近代というものはこの3つの側面を持つ総合体として理解すべきなのではないだろうかと思うんです。
私たちが近代と言ったとき、近代国家、近代社会あるいは近代化というふうに考えたときに、それぞれのイメージも多分この3つの中のどっちかに当たるんだろうと思うんです。近代の一つの顔というのは法の支配、客観的な支配であり、ウエーバー的に言うと、属人的なパーソナルな支配ではなくてシステムによる支配であって、合理的なシステムであり、それがドイツ