日本財団 図書館


コーチンはインド国内から見れば小都市で、小さな港のある一見活気のない町です。しかし、そこには豊かな歴史がありました。この都市では、現在でも少なくとも18の言語が話されていることが判明しています。あらゆる種類の民族がいます。今から約2,000年も前に、エルサレムで二つめの教会堂が破壊された後、コーチンに入植したユダヤ教の共同体があります。2,000年の歴史を持つキリスト教の共同体もあります。西暦48年に聖トマスが来訪してから女性修道院が始まったとされています。イスラム暦の1世紀頃に入植したとされるイスラム教の大規模な共同体もあります。

このような共同体には注目すべき歴史があります。例えば、ユダヤ教の共同体に話を聞いてみると、自分たちは抑圧、差別の記録や歴史を持たない、世界で唯一のユダヤ教の共同体だと誇らしげに答えました。14世紀から15世紀のある短期間にインドヘやって来たポルトガル人の侵略を受け、シナゴーグの一つが破壊されたといいます。インドの国王マリネ親王一家の一員であり、その地域の王であったマリネ親王の所へ直訴に行き、シナゴーグが破壊されたことを伝えました。マリネ親王は、「自分たちのものでない場所を破壊するというのはおかしなことだ」と言い、彼らに宮殿と王子の教会堂の隣に位置する土地を提供しました。このシナゴーダは、インド最古のシナゴーグの一つとして現在も残っており、高潔な教会堂と宮殿と共に「シアセボア」と言われています。彼らを保護するため、太陽と月が続く限りこの地にシナゴーグを持ち、付近にユダヤ教の涅槃を設立する永久の権利を保証する憲章「サナータ」が彼らに授けられました。それゆえ、コーチンの中心地にはユダヤ教の共同体があるのです。ユダヤ教の共同体にいる色の白い者は、まるでヨーロッパ人のようです。話されている言語は土着のマララン語です。ヘブル書研究の伝統が守られており、コーチンからヘブライ語の詩人や作家が頻繁に輩出します。現在では、ユダヤ教の共同体人口は100人に激減してはいますが、この共同体は2,000年もの間存続しています。その他の共同体の歴史については割愛します。時間の関係上詳しく説明はできませんが、コーチンにはコスモポリタニズムの伝統があるという点だけを指摘しておきます。コーチンのコスモポリタニズムは、500年前にヴァスコ・ダ・ガマが到着した時や、200年前に大英帝国がインドを植民地化した時に入って来たコスモポリタニズムではありません。周縁体験や限界体験として現在も生き続けるコスモポリタニズムであり、過去の遺物ではなく、今もコーチンにあるものなのす。

このコスモポリタニズムを形作っている決定的な点は、コーチンでは過去においても現代においても、るつぼ状態が認められないことです。異なる共同体と文化が到来し、融合し、最終的にはそれぞれのアイデンティティーが喪失される、るつぼが存在しません。日常生活において、自らのアイデンティティーを装飾工芸品のように掲げることによって、共同体を残し、アイデンティティーを保っています。コーチンは知のアイデンティティーを基盤にしています。コーチンは、中国、東南アジア、東アフリカ、アラブ世界、ヨーロッパの交流点でした。現代においても、幾分和らいだ形ではありますが、その面影を残しています。換言すれば、コーチンは、いわば近代世界の申し子だと私は考えているのです。るつぼ様式がないコーチンによって、共同体相互の交流、異文化間の交流を考える際の別の視点を得ることができました。コーチンを一つにまとめているものは何かを、私は見定めようとしました。しかし、それを一言で説明することは難しく、言葉や概念で説明ができるものとは、私は思いません。考えられる唯―の概念は、るつぼではなく、サラダボウルのようなものです。すべての文化一つ一つが、何かの構成モジュールであるかのようにしてもたらされました。サラダの中の材料はそれぞれ見分けがつきますが、その材料がすべて集まって一つのものを形作っています。サラダの中に使用されている野菜は、一つ一つ見分けがつくのです。この全く違うタイプのコスモポリタニズムは、おそらくアジアの他の多くの都市、アフリカの都市、近代ヨーロッパの都市には存在していなかったでしょう。世界のこの地域においてのみ、生き続けているのです。他の地域では滅びてしまったのかも知れませんし、東アフリカやアレクサンドリアのような地域で生き残っているのかも知れませんが、はっきりしません。しかし私が指摘したいのは、私たちが考えるのとは別のコスモポリタニズムが存在するということです。

二つめの実例として、1946年と1948年にインドとパキスタンで起きた、すなわち、100万人が死亡し、1,600万人が住居を追われた隠された大量虐殺の抗争事件を取り上げてみたいと思います。この抗争の真相は明らかにされておらず、私は抗争事件の大規模な調査に取り組んでいます。人々はこの事件に口を開ざします。インド国内でも、この事件を忘れようという風潮があります。事件から50年経った現在、犠牲者の記憶を呼び覚ますことは、私にとって心の痛む作業です。犠牲者の多くが、今も外傷性ストレスの後遺症に苦し

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION