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につくろうとしている時、こうした形で21世紀を展望したくはありません。

 

●田中

今はラディカルに変わっているのかというご質問に対してなのですが、こういうシンポジウムをやっていられるということはまだどん底には落ちていないのかもしれないですね。ですから私はこれからだと、もっと最悪にならないとこういう大きな変化というのは起こらないのではないかというふうに思っています。その後、その立て直しというものはどのように行われるのかということなのですが、江戸時代を見てみますと、全く見たこともないような新しいことが起こるということはないのです。何かを立て直す時には必ずそれはある他の国にある、あるいは過去にある、その中で何を選択して文明あるいは文化を立て直していくかということになっていくということが一つです。

もう一つは、そういう場合の文化の立て直しというのは経済の立て直しと無縁ではない、非常に密接な関係があるということです。しかしその立て直しというのはもしそれが非常に暴力的な植民地政策やあるいは奴隷化がそこにあった場合にはできなくなるということ、これは実際にそのような例があるわけです。私はこれから非常に大きな変化があると思っていますが、その前にもっと大きな危機を覚悟しなければならないと考えています。

それからもう一つ文明の進路の選択はどう行われたかということに一言でお答えしますが、江戸時代の場合には中国的文明というものを選択しました。しかしそれとは全く違う西洋的な文明も同時に入れているのです。そしていつもいろいろな側面で中国的なやり方に対する疑問を呈していくのです。それはいろいろな学者がやっています。では、中国的なものと西洋的なものしかないかと言いますと、そのどちらでもないものもあるのです。そのどちらでもないものはずっと後まで残ります。中国的な文明や西洋的な文明、西洋的な方法や美意識というふうに言っていいかもしれませんが、それがお互いに疑問を呈し合う、つまり相対化されている状態でどちらも絶対ではないという状態が江戸時代の間中ずっと続いていました。ですから明治になって西洋的な文明に襲われるようにして変化したわけではないのです。そのような両立しているという歴史の中で選択していったということもやはり明治の選択だと思っています。その3つのバランス、その3つの相対化は、あるいはもっと多くの相対化というものはこれからも持っているべきものだと思います。それからもう一つは、文化と情報が不均衡になっているのではないか、あるいは言語が英語だけに偏っているのではないかというご指摘があったのですが、これは歴史でたどっていきますと、文化と情報の不均衡というものは急速に不均衡でなくなっている、すごいスピードで不均衡でなくなっているというふうにこれははっきりと言えると思います。

それから言語についてですが、これも急速に平等化しているというふうに、今私たちが見ると何かそういう偏りがあるように見えるのですが、歴史の中で見るとこれはものすごいスピードでこの部分だけは大変大きな進歩をしているというふうに思っています。英語について言えば英語を使うということと、英語の中にある発想法とか文化ということとは別に考えなければならない、いつもそういう発想や価値観は突き放しながら英語を使わなければならないということは言えると思います。以上です。

 

●座長:青木

どうもありがとうございました。長い時間、皆様の大変貴重なご意見、ご報告またはコメントをいただきましてありがとうございました。

私は今日のお話を聞いていていろいろな問題が出て大変刺激されましたが、我々アジアの国々は基本的には複数のアイデンティティを生きていることは事実なのです。かねてより例えば現代日本には4つの文化があると、あるいは文化的な時間が流れていると私は言っております。いわゆる古来からの日本の土着的な文化、神道などに表されている文化があるわけです。同時にアジア大陸の普遍的な大文明の影響、例えば儒教とか道教とか、あるいは仏教の影響というものを受けています。これは社会制度なんかにも現れているわけでう。それからまた3番目は近代西洋の衝撃といった西洋文明、近代文明の影響を受けているわけです。しかも4番目には第2次世界大戦後の日本。現在示しているように現代日本の文化というものはそういうものを吸収しながら新しい文化をつくり出していると言えます。これは日本だけではなくて韓国もインドもあるいは中国も東南アジア諸国も内容はそれぞれ異にしておりますが、皆同じような形とつてきているわけです。ですからどこも一つの文化とか一つの民族だけで生きているところはないわけでありまして、我々は皆この大体4つぐらいの文化を合わせた混合文化を生きているわけです。ですからそういう意味での複数のアイデンティティというものはちゃんと認める必要があると思います。ただ国によっては、あるいは社会によってはその4つのあり方が大分違うということは当然あるわけであります。

今日のお話で例えば先ほど川勝さんが憧れられる文化にならなくてはいけないとおっしゃったのですが、現代の情報化時代では我々は例えばインドの自然あるいはインドの壮麗な文明の遺産あるいはカレーといったものにも憧れるし、韓国の陶磁器のすばらしさあるいは仏教寺院とか、あるいは焼き肉のすばらしさに憧れるし、中国にも憧れるし、もちろんインドネシアにも憧れるしというわけで、一つだけの文化が憧れられるという時代ではもう全くなくなったと私は思っております。

ただ今日のお話で一つ気がついたのは何かアジアと世界を問わずそのグローバリゼーションの中で我々が頼りにするような判断の基準というもの、例えば汚職というのがいろいろな国で起こって、その汚職に対する対応の仕方は国によって違うわけですけれども、汚職がいけないという場合にそれを判断する普遍的な尺度みたいなものがやはり今必要で、しかし必ずしもそれは西洋や近代から学ぶだけではないのです。それから科学技術も重要なのですが、科学技術は自分のつくり出したものをコントロールすることができないのです。例えば公害にしても、原爆にしても、こういうものをコントロールする力がありません。これはやはり文化の力あるいはもっと倫理とか道徳とかも含めた大きな文化の問題であり、そういう文化の問題が出てこざるを得ないというふうに思います。科学技術というものはいろいろなことを期待させることは事実なのですけれども。

それからまた都市化とか近代化というものが起こると、逆に人間の非常に否定的な感情である民族憎悪とか宗教の違いによる殺りくとかというものが起こってきた事実も見逃すわけにはいきませんので、そんないろいろな問題を考えさせられた午後の第2セッションでございました。これがまた明日もいろいろな形で議論が反映されると思います。

それではどうも長い間皆様ありがとうございました。

 

 

 

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