それを知ることによって自らのアイデンティティを獲得することができるわけです。そういうアジアの多様性を示す一つのキーコンセプトとして出したわけです。それは文化を何か単一の統一体みたいに見る見方ではなくて、私のように生活様式として規定すると固定的ではないかということですけれども、それも決して矛盾することではありません。生活様式は自分が日本人であるとか、インドネシア人であるとかということとは違って変わるものなのです。どうして変わるかというと外からの影響によってです。我々がヨーロッパやアジアの影響を受けて変わってきたようにです。その意味において変わるものとして生活様式がある。動的なものとして文化を私は考えているわけです。
そしてお互いに影響を与え得る広がりが今、地球的規模に広がっている、そのことが共通の認識です。これは先ほど関東大震災と神戸淡路大震災との比較で五百旗頭先生が言われましたけれども、世界の目が日本の神戸淡路大震災について見つめた。そうするとどういうふうに新しく神戸を復興させる、ないしは新しい都市社会をつくり上げていくかといった時に我々は日本の日本人による日本人だけのための、つまり神戸の神戸人による神戸のためだけの復興づくりではなくて、神戸の神戸人による地球社会のための復興づくりを期待されていると言えます。インドネシアからも、あるいはフィリピンからもそういう環太平洋の地震帯に浮かんでいる地域に住んでいる人が見にくるでしょう。見にきた時に、では今度は神戸でやったことと同じものをつくるかというと、それを参考にして自分たちができることをつくることになるだろう。
そのことは実は李さんの質問にも関わってくるわけですけれども、日本だけがというのではなくて、ある国が憧れるものを持つと自分の国をどうするかという、必ずリアクションというか反省が出てくる。ヨーロッパを見ることによって、日本はどうしたらよいかと考えました。そういうふうに憧れを持つ、持たれる。自国のアイデンティティヘの自覚を高めるというような意味において、日本は今そのことに不足していると。では憧れるものとして普遍的なもの、例えばお金とか、先ほど山野さんが言われた自然科学、これはあくまで手段です。そういうものを使って一体何をつくっているかということこそが問題で、それは固有の文化のほうに本来最終的な価値があると私は考えているわけです。
こうしたものがどうしてつくられるかというのは決して歴史に必然性はない。けれども、歴史上起こってきたことをどう考え直すかという時に必然的なものとして受けとめるということでありまして、日本がこれからどうしていくかということは隗より始めるというか、自分たち自身が決意して始めないことには何も始まらない。自然に日本が文明になるということは到底あり得ないことであります。
●ナンディ
三つの点について、申し上げたいと思います。まず第一に、単一の言語、単一の文化を備え、熱烈なナショナリズムに支えられている国民国家は必ず快適だということです。不幸にして、こうした選択肢が次の世紀にはなくなるとしても、川勝さんが挙げられた3,000の共同体があります。エリーズ・クルーディング氏は10,000という数字を挙げています。彼女によれば、国民国家への途上にある民族共同体が、現在10,000あるとのことです。加盟国が10,000力国に及ぶ国際連合、または国際機関というのは少々想像しにくいのですが、より巨大な政治システムの中で理解してみてはどうでしょうか。どう組織するか、その資源をどこに求めるか、というのが現実問題であります。
第二に、たしかに文化には流れがあります。しかし川勝さんが述べられた、高い文化から低い文化への流れという考え方には多少疑問を感じます。この考え方にに一面の真理があることは否定しません。しかし高い文化、低い文化という議論は、ある文化を、他の文化に対する義務と責任で束縛する社会革命的な枠組みとして誤解を生みやすい傾向があります。より柔軟に文化を概念化する方法として、豊かさという概念を提案します。中国も日本も、ある時期に文化が中国から日本へ流れたことを誇りにすべきだと思います。日本は中国の文化をより豊かにして中国に返し、中国はそのことを誇りにすべきだと信じたい。これが文化に対するもう一つの見方です。
第三に、文化は葬られた歴史上の意味を取り戻す問題ではありません。私の意図したことは、黄金時代の過去や、空想的に描かれた過去に舞い戻ることではありません。私がテーマとしたのは、信念をもって、国家や社会の改革に取り組んでいる多数の人々に象徴される、自分たちの限界まで挑戦しようとする民主化のプロセスです。それが民主化への道です。そして、さらには、私たちの中にある忘れ去りたい部分にも手を伸ばすことです。山野さんが指摘されたように、次の世紀は、やはり経済とビジネスの時代となるでしょう。しかし、日本が米穀の農産物生産システムを、経済や価格の観点からのみ考え、インド米の遺伝子組み換えを各地で行うことで米穀の日本市場をインド国内