文化から遠ざかった感じもしますが、これから文化について語りあいましょう。
今日はこれからお2人の報告者に非常に対照的なお話をいただけると思います。
それではまず最初にアンソニー・リードさんからお話をいただきたいと思います。リードさんよろしくお願いいたします。
●アンソニー・リード(オーストラリア、オーストラリア国立大学アジア太平洋研究所東南アジア史教授)
まず、このフォーラムの主催者の方々に対し、このアジアの共同体にオーストラリアを加えていただいたことに感謝したいと思います。私たちは皆島に住み、島国人の性質を備えています。オーストラリアは広大な大陸には属していませんが、幸運にも距離的には近い場所に位置しているため、島の住人は常に、大陸に対してわずかながら複雑な感情を抱いてきました。オーストラリアにとって、特にアジアとの関係は微妙です。しかし、私の考えでは、オーストラリアの置かれている状況は、ヨーロッパに対する英国の状況とそれほど異なったものではありません。ある国が世界のどの地域に属すべきかは根本的には問題ではありません。その意味で、オーストラリアは様々な制約を次第に克服していくことでしょう。私は、アジアの政治の仕組みやその機能性が高まれば、生物学的・民族的な観点から発生する誤解はなくなっていくと考えております。政治的構造を変革できるならば、何であれ歓迎すべきです。私はそうしたものに非常に関心を抱いております。
私がここで申し上げたかったことは、グローバリゼーションに関連するほんの一部分です。今回のパネルのテーマは、もちろん第一義的には、東南アジアが現在直面している危機に関するものです。この危機に関して、それぞれ異なった段階にある東南アジア諸国を支え、東南アジア国家をさらに発展させるために必要だと思われる、ある種の民主主義的な政治改革の過程とこの経済危機とを結びつけて考えたいと思います。
高い教養を備え見聞を広めた国民にとって、政革を必要としない安定した統治形態とは、開かれた責任ある民主主義以外にはないように思われます。民主主義こそが歴史的事実が示す相互信頼を生む基盤であります。民主主義こそアジア社会が現在向かっており、また向かうべき方向です。とはいえ、私たちが本当に一つの道を歩んでいるとすれば、その道には危険も潜んでいます。マレーシアの副首相の主張にもある通り、アジア諸国は、今回の景気後退で、透明度・公開度の向上や、民主主義化への要求が否応なしに高まるでしょう。特に、民主主義が誕生する機会を待望するインドネシアなどの地域では、これをきっかけに民主主義化への要求が高まるでしょう。しかし、ヨーロッパの場合や大恐慌の先例など、歴史上の前例はあまり好ましいものではありません。以前にも数多くの恐慌や経済危機があり、それに対して外国人排斥運動、狂信的排外主義、責任転嫁、国家間の障壁、恐怖心に導かれた対応といった政治的反応が発生した実例を歴史に見ることができます。
今回の危機において問題にすべきは経済であり、言うまでもなく経済の立て直しが現在の緊急課題です。しかし長期的に見た場合、経済が最も深刻な問題ではないのです。最も深刻な問題は政治の問題であり、文化の問題です。このような政治や文化の問題は、現在東南アジアが耐えている、そして今後数年間耐え続けねばならない経済的苦痛に大きな影響を及ぼし、政治上の取り組み方や、新たな責任転嫁、そして今回の経済危機をもたらした者たちに対する対処の仕方に大きく影響してきます。
私がこうした警告を発するのは、もちろん第一義的にはヨーロッパの問題を念頭に置いているからです。私はこの報告で、比較的均質かつ民主主義的で市場経済に基づき相互に統合された国民国家へ移行したヨーロッパ諸国の事例から、一つの教訓を導き出そうとしています。ヨーロッパの事例は、世界各地に極めて大きな影響を与えてきました。しかし、現在は、そのままでは適切な事例として用いることはできないと思います。東南アジアやユーラシア大陸のほとんどの地域にとって、北米やオーストラリアの移民社会よりも、はるかに適切な事例となるのは、ヨーロッパの多様性とアジアの多様性の間にある、ある種の類似性を比較検討することです。
比較的均質かつ小規模で統合化の進んだ国民国家体制への民主主義的な移行を、非常に多元的な地域で行うことは極めて困難なことです。私たちが注目すべき点は、ヨーロッパが民主化へ向かった歴史上の魅惑的な側面ではなく、ヨーロッパが民主化へ移行する際に払った、その膨大な代償です。二つの世界大戦による犠牲、ファシズムや共産主義などの形態をとって登場した二つのメシア思想的絶対主義による犠牲、そして、おそらくは最も関連の深い問題として、東南アジアの華僑に匹敵する、 ヨーロッパ社会における最も活発な起業家少数集団であったユダヤ人などのマイノリ