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ます。しかしそういうものも実は近代化によって逆に掘り起こされ、そして命を復活させられているという側面もあります。日本でも韓国でも古代遺跡の発掘、その保存ということは近代化とともに進められたので、それぞれの国々の古典の研究ということも近代化の豊かさと、そして近代的な学問方法によって進められました。

そしてたくさんの新しいアジア文明が今、生まれつつあります。例えば映画です。アジアの映画というのは今は世界を圧倒していると言ってもいい。アメリカのハリウッドも大平洋の西海岸にあって、環太平洋の一員であります。したがって、これも仲間だと考えたら、世界の映画のほとんどすべてを今、環太平洋共同体でつくっています。映画とは実は20世紀の芸術です。20世紀の芸術の中で一番アジア人が発言しているのです。さらに先ほど私は三木稔さんの例を挙げましたが、アジアの楽器の合奏が今、初めて可能になりつつあります。さまざまな国の民族芸能ですら今、世界的に普及しつつあるもの、広がりつつあるものというのは、必ず共通の符号として近代性というものを背負っています。

さて、21世紀はどうなるのか。私は人間に個体維持という行動がある限り近代化が止む時はないと思います。もちろんこの個体維持ということが引き起こしている重大な問題がたくさんあります。実は、マーケットメカニズム、あるいは自由な市場というものは、個体維持の原則に立っている。種族維持の原則を忘れています。あまりにも忘れています。したがって、マーケットメカニズムは常に現在のために働いています。未来のことは勘定に入れていないのであります。今ある商品とある商品が交換される。貨幣と商品が交換される。今、ということが問題です。

その商品をつくるために、我々が未来の資源を浪費したり、あるいは未来の環境を破壊する可能性は大いにあります。しかしそれを止める力はマーケットにはありません。そして未来の資源や環境が失われれば、種族維持は危うくなります。

そういうことに着目して、例えば工業化にブレーキをかけるべきであるとか、さまざまな個人的な欲望を押さえて、あるいは自由な市場のあまりにも激しい力に制限を加えるという声がないことはありません。近代化に疑いを投げかけ、それを否定する声が不思議なことになぜか「ポスト近代主義」という言葉で言われています。しかしポスト近代主義の中身を見ますと、大体においてみんな「プレ近代主義」であります。

そういった大きな問題を抱えて、私たちは種族維持の原理にももう一度注意を払うべきでありますけれども、だからといって個体維持の原則、つまり近代化を否定することは最早できません。我々はいかに未来の人類のためだとは言え、現在生きている老人を皆殺しにするほど無神経ではない。もうそういう神経は持ちようがないのです。そうすると、やはり問題の解決は新しい技術革新ということを行って、この2つの問題の矛盾、個体を維持することと、未来を維持することの矛盾を解決しなければならない。しかしその技術革新とは再び近代化にほかならないのであります。

現在、アジアの経済が若干の蹉跌を味わっているのは事実であります。私たちはアジア人として正直にそのことを認めなければならない。しかしそれも決して近代化が起こした問題ではなくて、むしろ近代化の不十分さが起こした問題であります。こういう言い方をすると、アジアの友人の中には腹を立てられる方がいらっしゃるかもしれません。しかし日本を含めて、まだアジアの国々は十分に近代化を進めていない。例えばある国では、いまだに財閥という少数の家族が経済全体を握っている。貧富の差が極めて大きい社会があります。とりわけ農地の開放が行われていないために、農村に非常に貧困な人口が蓄積している。これが近代化を始めますと、例えば都市への激しい流入が始まる。するとそこで都市犯罪というようなことも頻発する。

日本は敗戦後、アメリカ占領軍の忠告も受け入れながら、しかしかなり独自の努力によって財閥の解体あるいは農地の開放をやりました。例えば戦後の米の価格の維持に政府は非常な力を注ぎました。振り返って見ると、都市の住民はその時点で見ると過大な負担をしながら、自分たちの税金で農村を助けた。つまり米の価格維持に寄与した。その他、農村に対していろいろな補助金を出すという政策が、いささか過剰なまでに行われました。そしてその間に、農村に対して過剰な負担を行う、あるいは都市の中でも特に国際化に遅れ、古い技術の中で苦しんでいる産業にたくさんの補助金を与える、ということをやって平等化を維持してきたから今日の日本の安定がある。

しかし、そこから今度は日本では腐敗という現象を生み出しました。市場原理に反して、大きな政府が経済的に弱いセクターにたくさんのお金を注ぎ込んだために、その過程の中で政治家が利権を握ったり、官僚が権力を振るったりという悪い習慣が確立しました。だから私は、他のアジア諸国に比べて、日本がすぐれているなどというつもりはありません。日本もそれなりの失敗をしました。しかし、やったことはやはり事実としてお話ししなければなりません。その結果、日本は恐らくアメリカをも越える高度に平等な社会をつくった。この平等な社会もそれ自体、問題はいろいろ含んでいますけれども、しかし犯罪の少なさというような利点は明らかな結果であります。

したがって、私は今後21世紀に向かって、アジアは「アジア的価値」などということを言うのではなくて、普遍的な近代化の論理に従って、それぞれの国の改革に努力をしなければならないだろうと思います。そして我々アジア人として特に西洋人に言えることは、宗教的な寛容であります。いつまでキリスト教徒は例えばアイルランドで人殺しをしているのかと、いつまで中近東でイスラムと争っているのかと言えるはずです。アメリカのサミュエル・ハンティントン教授が「ひょっとすると21世紀には儒教とイスラム教が手を組んでキリスト教と闘うかもしれない」という予測をしました。これは全く現実に反しています。アジアにおいてこそイスラムもキリスト教も仏教も仲良く暮らしている。イスラム教自体がアジアにおいては非常に寛大であります。ところが西洋ではまだ闘っている。アジア側ももちろん謙虚に近代的ないろいろな価値の実現に努めなければならないけれども、西洋だって努めなければならないことがあります。そうしてお互いの利点、そしてお互いの困難を認めることによって、この近代化はやがてアジアを越えて、あるいは環太平洋すら越えて、世界をつなぐ共通の約束ごとになるであろう、またそれを願って私の話を終わりたいと思います。

 

 

 

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