すなわち,大きな抵抗因子となっている水中でのリカバリー動作を回避するために模索した結果が,水上でのリカバリーだったわけで(図1−a),1933年,アメリカのM.メイヤース選手によって初めてこの泳法が泳がれた8)10)16)15)18)24)25)。
当時の平泳ぎのルールでは,“平体で両肩を水平にして保ち,腕。足の動作は左右対称にし,キックはかえる足にすること”のみが規定されていただけで,腕のリカバリーを水上に出してやってはならないということは何も規定されていなかった。したがって・メイヤース選手の行ったリカバリー動作は平泳ぎに関する規則にはなんら触れておらず,いわば規則の盲点をついた斬新なアイデアだったと言える。この“バタフライ”という名称は,両腕同時に後ろから斜めにそして前へと振るリカバリーが飛んでいる蝶に似ていたことから名付けられたものである1)。この時は、まだかえる足とのコンビネーションで行われていたことからバタフライ式平泳ぎ(Butterfly breast stoke)と呼ばれていた9)16)。このリカバリー法の改善により,オーソドックス式平泳ぎで出された100ヤードの記録1分07秒0が,1分05秒0にまで短縮された。しかしながら,平泳ぎ元来の泳法から大きく逸脱しているという理由で,多くのコーチや競技役員には受け入れ難かったようである。
2-b.幻のバタフライストローク
M.メイヤース選手が行ったバタフライ式平泳ぎは,特に短い距離ではオーソドックスな平泳ぎよりも速かったものの,200mのように距離が長くなるとこの泳法を持続できない選手が続出した。これは,バタフライ式平泳ぎは,より大きな推進力を作れ,スピードが高いという利点をもつ一方で,身体の上下動が従来の平泳ぎよりも大きいために上体の大きな筋力が要求されること,およびかえる足によるキックが,大きな抵抗因子になるために,非経済的泳法であるという不利な要素を含んでいたことによる。そこで1935年,アイオワ大学水泳部主任コーチであったD.アームブルスター氏はキックの抵抗要因を減少させることを目的とし,キックの改良に着手しはじめた1)24)。その当時,同大学の水泳選手であったJ.ジーグ選手が,身体を横にし,魚の尾ひれと類似した動作で両脚をそろえてキックする技法を考え出した(図1−b)。これを機会に,2人はこのキックをバタフライ式の腕の動作と同時に行うことを試み,2つの動作がうまく調和することを見い出すのである。ジーグ選手は腕の1ストロークに対して,2回脚を打つという現在のバタフライ泳法で,100ヤードを1分00秒で泳いだとされる。このキックはイルカの尾ひれの動作に類似していたことから,ドルフィンキック,またはフィッシュテールキックと名付けられた。しかしながら,前述したように,当時の平泳ぎのルールはかえる足とすることと規定されていたため,彼らの開発したバタフライストロークとドルフィンキックの組み合わせは,当時平泳ぎ種目としては認められなかった。結局,この泳ぎが実用化されるまでには,平泳ぎがバタフライから独立して新種目と確立された1953年まで,約20年間も待たねばならなかったのである。そういう意味では,幻に終わった現代バタフライストロークの誕生秘話といえよう。
2-Cバタフライ式平泳ぎ時代
バタフライ式平泳ぎが,平泳ぎ種目として正式に公認されたのは,1936年, ベルリンオリンピックの際に開かれた国際水泳連盟総会のことである24)25)。これを受け,同大会では200m平泳ぎ種目において, アメリカのヒギンス選手とゲズレー選手,ドイツのバルケ選手が,バタフライ式平泳ぎでエントリーした。結果は, ヒギンス選手が同レース前半をバタフライ式平泳ぎで健闘したものの,後半はオーソドックスな平泳ぎに変えて結局4位,バルケ選手は6位に終わっている。優勝ははじめからオーソドックス平泳ぎで泳ぎ通した日本の葉室鉄夫選手であり,2位も平泳ぎで泳いだドイツのジータス選手であった24)25)。この結果からも,平泳ぎのキックとバタフライストロークの組み合わせは,非経済的な泳ぎであったことが推察される。