1936年には,平泳ぎ種目として正式に公認されたバタフライ式平泳ぎではあるが, 翌1937年には早くもルール改正が行われている。すなわち,国際水泳連盟では,「水上をリカバリーする腕の動作をレース中通して続けられる場合にのみ」という条件付きで,この泳法を国際的に認めることとした1)24)25)。したがって,この段階で, ベルリンオリンピックでヒギンス選手が用いたような,前半は高いスピードで泳げるバタフライ式平泳ぎで泳ぎ,後半は経済的なオーソドックス平泳ぎで泳ぐという作戦は不可能となった。そのため事実上平泳ぎはリカバリー形式の異なる2つのタイプの泳ぎが同時に記録を競うかたちとなった。これを示すように,実際当時の国際水泳連盟では,平泳ぎ種目の記録を,オーソドックス式平泳ぎとバタフライ式平泳ぎにの2つの部門に分けて掲載していた1)。
これ以降も,バタフライ式平泳ぎは各種の国際競技会において平泳ぎ種目の中で泳がれ続け,1948年のロンドンオリンピックでは,平泳ぎ決勝に出場した選手の中で1人を除いて,すべてバタフライ式平泳ぎで泳ぐまでに普及した9)。ただし,平泳ぎ種目であるため,ジーグ選手が試みたドルフィンキック式のバタフライは当時まだ許されず,かえる足キックとのコンビネーションで泳がれていた。
2-d バタフライの独立
1933年以降,平泳ぎとバタフライ式平泳ぎは同一種目の中で混泳されてきたものの,1947年にはそれも原則的に混泳禁止となっている21)。そして,1953年,ついに国際水泳連盟はバタフライを平泳ぎから独立した種目として認め,バタフライ種目としての初めての世界記録を公認した21)24)。そして,1956年に開催されたメルボルンオリンピックから公式種目として採用している1)2)16)15)18)24)。ここに至り,やっと正式な意味でのバタフライが誕生したことになる。このバタフライの独立にともない,従来のかえる足キックに加えて,上下にキックすることが許されるようになり,ドルフィンキックの使用が可能となった。現在用いられているドルフィンキック式のバタフライが確立されたのも,これ以降のことである。1935年,アームブルスターコーチとジーグ選手がドルフィンキック式バタフライに取り組んでから,実に18年が経過した後のことであった。
3.日本におけるバタフライの変遷
日本における水泳は,古くより,実用的および軍事的目的として発展してきた16)。すなわち,庶民階級においては避暑や魚介類の漁獲のため,また武士階級にあっては武術のためとしてである。武術の一環として発展してきた水泳は,後に古式泳法(または日本泳法)と呼ばれ,その端を鎌倉時代に発し,江戸時代にかけて武術として盛んとなったものである17)24)。いろいろな地域でいくつかの流派に分かれて発達を遂げ,独特の泳法を発展させるにいたった。現在でも,12の流派が日本水泳連盟主催の泳法大会などに参加している。
これらの古式泳法(日本泳法)の中にも,バタフライと類似した,両腕を水上に出して前方にかえす泳ぎがいくつか見られる。例えば,神伝流の諸手抜,水府流の諸抜手,小堀流の一拍子泳などである(図2)24)。この泳ぎ方の足は,あおり足を縦に使ってはさみ足の形をしたものである。しかし,古式泳法での泳ぎは武士の武技として発達したため,戦に必要な各種の技能に重点がおかれたものであり,より速い泳ぎを目的とした近代泳法としてのバタフライへは直接結びつかなかった。
日本で初めてバタフライが泳がれたのは1935年のことであり,第2回日米対抗戦の前の大阪大会において,アメリカのヒギンズ選手とゲズレー選手の2人がバタフライ式平泳ぎを披露した8)24)。また,この年の神宮プールで開かれた日米対抗戦では,この2人に加えてドイツのバルケ選手もバタフライ式平泳ぎで泳いでいる8)。