1896 旧河川法制定 淀川、筑後川近代治水開始
1900 利根川近代治水開始
1910 利根川など大水害 第一期治水計画
1930 利根川改修竣工
1931 信濃川大河津分水路完成
1934 室戸台風台風(西日本)
1938 梅雨豪雨(六甲など)
1940 河水統制事業
1945 枕崎台風(西日本) 第二次世界大戦終了
102年前に旧河川法、昔の河川法ができました。1896年のことです。つまりこの時から日本の河川の近代化が始まったんです。そして従来は、江戸時代から明治の前半までは、その時代なりに川と流域住民が共生していたんです。技術もなかったし、財政も乏しかったから、洪水を全部コントロールするなんて到底できない。したがって、それまでは氾濫をした場合にどうするかということを考えていたんですね。これは現在の東南アジアの多くの国々がそうです。決して洪水が川から1滴もあふれないようにしようなんて、そんな大それたことは考えなかった。ですから、昔は川の近くの低湿地に家を建てなかったんです。川の近くの低湿地には大事な作物は植えなかった。水につかってもいいようなものを植えたんです。レンコン、あるいはタカクワ、あるいはある種の果樹とか。そして家は川から離れたところの少し高いところに設けるのが当然だったわけです。
ところが、この102年前から何とか大洪水を川の中へ押し込めようと乾坤一擲。これは雄渾な計画です。アジア・モンスーン地帯で初めての試みです。アジア・モンスーン地帯というのは大変な豪雨と、洪水が暴れるところです。それを退治しようとかかったんですから、これは並々ならぬ意図だと私は思います。明治において、公共投資に一番金をかけたのは鉄道と治水です。鉄道も一生懸命やったんですね。つまり沖積平野に日本の大事な都市とか産業が集まってます。そこがしばしば氾濫していたわけですから、その土地の利用度を高め、安全度を高めようと思ったのは当然。そこで、大治水事業が始まりました。それがだいたい1930年ごろに一段落つきました。1930年、昭和5年に利根川の改修が終わりました。この年に淀川も終わっております。翌年は信濃川の治水工事も終わりました。これでやれやれと思ったんですが、34年に室戸台風、あるいは35年に、利根川に大洪水が来てます。38年に六甲。神戸周辺の大水害があります。谷崎潤一郎の『細雪』の中にこの時の水害の様子が克明に描かれています。谷崎潤一郎は芦屋に住んでて、この水害に遭ってるんですね。その体験談が出てきます。その後、六甲の大砂防が始まるんです。