す。
つまり昔は一つの川の流域単位で一つの社会ができていた。上流の森林を筏で流して、その下流で木工業が興るというようなことは極めて自然だったんです。ところが、鉄道が発達し、特に戦後は自動車交通が発達してきますと、鉄道とか道路が川の流域を次々輪切りにしていって、流域という概念がなくなってきたんです。
一方、昔の河川法ができて今年で102年目ですけれども、この100年間、治水事業に精を出しましたので、沖積平野の氾濫頻度が非常に減ったんです。そうしますと、明治半ばごろまでは、流域の住民が治水に大変協力した。協力したどころか、堤防が切れそうになった時には地元の住民が一生懸命防いだんです。元来、治水というのは行政だけでできるものではない。もちろん大きな工事は行政でなければできませんけれども、それと流域住民とが協力し合わないと治水は全うできない。流域住民と言うとちょっと語弊があるかもしれませんけれども、例えば土地の利用の仕方です。つまり治水事業というのは川に立派な工事をしただけでは極めて不十分です。氾濫しやすい場所の土地をどうするかとか、あるいはその流域の地域計画とか都市計画といかに共同作業ができるかどうかが、治水事業にとって重要なことだと思うんですが、明治半ばから治水事業は河川行政だけがやるものだと行政のほうも考えて、おれたちに任せろという気持ちでやってきたんでしょう。相当の成果が上がり、氾濫頻度は非常に減ったんです。
そうしますと、今度は流域住民のほうは、治水事業は行政がやるもので、おれたちはあんまり関係ない。行政が一生懸命やればそれでいいんだとすっかり行政任せになった。行政自体も任せておけという姿勢が強かったと思います。それがまた川離れ現象を起こしたんです。
昔は流域住民が協力したから、明治のはじめごろの陳情を見ますと、例えばあのへんの川底がこのごろ上がってる、あのへんの川岸が壊れてる、何とかしてくれとか、そういう陳情です。それは周りの人が川をよく見てたんですね。観察して、それを行政にいろいろ訴えて、「あそこ、ちゃんとしないと困るじゃないか」とか、川のことをよく知ってたんですね。治水が行政任せになりますと、皆さんの川への関心は薄らいでいって、全部行政任せになってしまった。それも川離れ現象です。
川が交通路であった時代は、多分周りの人は、明日、舟で下流に行かねばならん、明日は水位がどのぐらいだろうか、きっと気にしたと思うんです。非常に水位が高くなれば舟は出ません。あるいは渇水になると、これまた舟は川底をこすってしまって舟が出ませんから、周りの人は川の状況を気にしたんだと思います。ということは、川の観察力が今よりはずっと鋭かったに違いない。つまり川と地域住民とはそういう関係にあったわけです。それがこの100年間で川離れ現象を起こして、川と流域住民の関係が断ち切られてしまった。
断ち切ろうと思ってやったわけではないんですが、堤防もだんだん高くなればなるほど、日常生活にとって面倒になるわけです。昭和のはじめごろ、流域の人たちの声の中に、なんでこんな高い堤防をつくったんだと、洗濯に行くのに不便でしょうがない。戦後、特に伊勢湾台風というものすごい台風災害がありましたので、伊勢湾台風の後は、東京湾にああいう台風が来たら大変だというわけです。東京湾に伊勢湾台風が来ても大