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る人であって、みんな歩いていった。歩いていったればこそ坂を上ったり下ったりしていったわけですが、物をどうして運んだかと言うと、非常に多くの場合に、特にお米のような目方の多い物については、上から下まで川によって運んできたわけでございますから、山を管理する、川を管理するということは殿様にとって非常に重要な仕事であったわけでございますけれども、この100年の間にすっかりそれが変わった。国土のどこへ行きましても、山の上から海へ向かって川が流れておったわけでございますが、それが道路によって、特にまた鉄道によりまして、川を横切って海沿いに道路ができていったわけでありまして、その道路も人が歩く程度の東海道だ、あるいは中山道だっていう通りから、どんどん荷車、あるいはトラックのようなものが走るように海沿いに立派な道ができていったわけで、交通網が山から海にというのが、海沿いにずっとできてきたわけでございました。100年の間に事情がすっかり変わったということで、先ほど申しましたように材木が使われなくなった、あるいは下草が肥料にならなくなった、下枝も使われなくなったということのほかに、交通体系がすっかり変わったということによりまして、山というものの持つ意味が変わったわけでございまして、そこで改めて、今までそういう必要がなかったのかもしれないんですが、下流に住む人間が上流のことをもっと身近なものとして勉強するようにしなけりゃならない。あるいは身近なものとして体験するようにしなければならないということが大変必要であると私どもは考えておりまして、山業のスタートはそのへんにあるのではないかと考えて、取り組んでおります。

それにはどうしたらいいかということなんですけれども、私は現在、70代の後半に当たるんですが、私どもが小学生の時の学校の先生は、非常に多くの方々が農山村の出身の方でございました。私は都会生まれ、都会育ちなんですけれども、先生はよく自分が子供のころにどうやって遊んだかと。学校まで通うのに何里という道を毎日、朝晩歩いて通った。そして歩いて通った途中で畦道沿いに田んぼの中へ足を入れて、そして田んぼの中でうごめいてる小さなお魚だとか虫だとかっていうものをとらえて遊んだと。それからまた草花がどうやって育っていくかということを見たと。ところが、今の君たち、子供たち、特に都会の子供たちは、虫とか鳥とか魚とか草とか木とかいうものをどうもあまりにも知らなすぎる。それは非常にまずいということで、先生は一生懸命私どもが自然に親しむように誘導してくださったわけでございます。

ところが、今、小学校、中学校の先生に「あなたはどこで生まれ育ちましたか」と言うと、なかなか田んぼで育った、畑で育った、山で育ったという小学校、中学校の先生がいなくなってきたわけでありまして、小学校、中学校の先生も都会生まれ、都会育ちの人になった。

これは一つには、戦争が終わるまでの間、学校の先生はどういうふうにして育てられたかと言うと、師範学校という学校システムがあって、師範学校で教育を受けて、そこで学校の先生になる教育を受けておったわけです。その当時、師範学校と陸軍士官学校と海軍兵学校だけは授業料がなかった。ただであったわけでございます。したがって、農家の次三男の方々で、頭の構造がいいっていうか勉強家の方々は、非常に多くの人が兵学校に行ったり士官学校に行ったり、そしてまた師範学校に行ったわけでございます。

米軍に占領されました時に、米軍はいろいろ日本の今までのしきたりを直せという

 

 

 

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