ですから、ここにあるものも、一面では氾濫は困る、だけども、もう一面では氾濫してくれるからこそ土が、新しい土が入って、畑の土が生命力を高めてくれるという。どちらが正しいことなのか分からない、両方持っているというふうな、こういう発想です。
ですから、ここにあるものも、お互いに自然と人間との間が何とかバランスをとって、どちらかが一方的に強い弱いではなく、何とか折り合いをつけていこう、何とかおさめていこうという、こういう発想です。ですから矛盾があるならば矛盾を克服してしまおうと考えるのではなくて、矛盾があるならば何とか折り合いをつけようという発想です。
この発想というのは私たち日本人には、ことの善し悪しは別にしまして結構しみついておりまして、例えば私たち議論をする場合に、例えばAさんとBさんが対立した意見を述べ合っているときがあります。そのときにAさんが正しいか、Bさんが正しいか、決着つけるまでとことん議論するというやり方はあまり日本の作法として行わない場合が多いです。どうしても白黒つけなきゃまずいことはやるかもしれませんけど、多くの場合は何となくこの意見が正しそうだなという雰囲気が出てきたところで議論を中止して、何となく、例えばAさんの意見がどうやら正しいようだということになってきたときには、Bさんの顔をつぶさないように、どこかで折り合いをつけてしまうというふうなことをむしろやる場合が多いです。
これはやはり日本の伝統的な発想で、つまり、いいとか悪いとかではなくて、矛盾があったら克服するんではなくて、矛盾があったら折り合いをつければいいという、こういう発想が自然と人間という差層の問題で、つまり底にあるところでこういう発想があったのが私たちの暮らしだったということだろうと思うのです。
ですから日本の神々というのが、先ほど言ったようによく分からない神様も含めて800万も神様を作ってしまった。これも唯一神をもし作るならば、つまり絶対神を作ることができれば、絶対神というのは正義を表現しているわけで、絶対正しい、間違うことのない神こそが絶対神である。
ところが、日本人たちの発想の中には、何が絶対正しいのかということを考える必要はさほどないのではないのかという発想があった。というのは、先ほど言ったように自然と人間の関係の中で何が正しいのかを問うてもしようがない。そんなことよりも、いつも何とかおさめ合っていった方がいいじゃないかという発想です。そうなってきますと、おさめていくさまざまな神々が登場してくるわけで、遂には800万も神を作ってしまって、その神の中にも、しようがない神様までいたりして、実ににぎやかな神話の世界が作られていくわけです。
こういう自然の世界というものを、つまり自然と人間の世界というものを、私たちは前近代的な自然観として、ただ退けるだけでよかったんだろうかという気がいたします。つまり、本来からいきますと、思想というものは、その地域地域によって異なったものであって構わないというふうに私は考えています。ところが、近代世界が始まったことによって全世界に普遍的なものの考え方があるという発想が広まった。ところが、その普遍的なものの考え方と言われたものをよくよく吟味してみますと、それは根源的