はないかという、こんな感じです。
つまり、理由も分からない、何も分からない、だけど、いいじゃないか、こういう感覚がもともと日本の社会の中にはたくさんあったのだろうと思うのです。といいますのは、もともと人間たちの考え方を作ってきたものは何かといいますと、哲学を研究している人間として、私は自然と人間との関係が基底にあるんだというふうに思っています。どういうことかといいますと、先ほど申し上げましたけれども、例えばヨーロッパに行きますと自然の力が弱い。それは何を意味しているかといいますと、人間がしっかり守ってあげないと滅ぶような自然があるというふうにも言えるわけです。
あるときユーゴスラビアを旅行していて、野っ原で汽車がとまってしまって、結局、2時間ぐらい汽車がとまっていたんですけれども、そうしましたら皆さん、汽車から降りて昼寝したりしているので、ぼくも昼寝していたときがあります。その汽車の窓から見ていた景色は砂漠という感じです。ほとんど草が生えていない。ところどころにアネモネの花が咲いていましたけれども、アネモネというのは乾燥性の草ですから、本当に一面の砂地にぽつんぽつんとアネモネが咲いているという、そんな景色のところでした。
降りてみて分かったんですけど、実はそこは畑だったのです。つまり、ムギが、恐らく種まきだけしたんだろうと思うのです。ところどころに本当に1本、1本というような感じでムギが生えていました。これは灌漑施設を作らない畑の失敗というふうに考えていいわけですけれども、日本では到底考えられないことです。日本では畑を放り出しておけば、間違いなく草薮になっていて、人間が入れないぐらい草ぼうぼうになっているというのが当たり前の姿です。ところが、このユーゴスラビアのような地中海沿岸の気候帯に行きますと、人間がきちっと水をまいてあげることをしなかったらば砂漠のような景色が広がってしまう。つまり、これぐらい自然の状態が違う。
そうしますと、もともと人間たちが自然の中で生きようとしたときに、自然に対してどういうふうに対応していったらいいのか、その考え方が当然変わってまいります。ですから、そこからはヨーロッパにはヒューマニズムと言ってもいいし、人間中心主義と言ってもいい、つまり人間が中心になってこの世界をおさめ、自然も守っていくという考え方がどうしても定着してまいります。
ところが、日本のような社会ですと、自然の力の方が一面では人間よりも強い。ですから人間がいくら頑張ったところで、大きな台風でも来れば、すべてを壊してしまうかもしれない。そういう自然とつき合いながら日本の人々は暮らしてきたんだろうと思うのです。
ですから、ここでは自然などというものは人間が管理したり保護したりできるものではないという気持ちが出てきます。また、ここでは自然というものはありがたいものなのに困ったものでもあるわけです。例えば雨が降って川の水が流れているからこそ人間も暮らしていけるし、畑も作ることができる。ところが、その度が過ぎて、大雨が降って台風でも来れば、畑も流してしまうかもしれないし、家も流されてしまうかもしれない。つまり、一面では暮らしていく上で大変ありがたい自然なのに、ときにはその自然が人間にとっては大変困ったものにもなります。
こういうふうに自然の本性自体が人間にとってありがたいものなのか、それとも少々