ふうな気がするのです。
もともと日本の社会というものはこういう発想を持っていたわけではありませんで、雑談のようなことを申し上げますと、冒頭に、ことしの正月は間伐をしていたというふうに申し上げました。その林の下にササ藪がありまして、スズタケというのが生えているんですけれども、それがギューギューに生えてきました。毎年、村に正月ごろ行きますと、だんだん暖かくなってきているので、村の感覚としてはやっぱり地球は温暖化していると思っているんですけれども。植生も随分変わってきています。もともとそれほど縄張りを広げなかった、どっちかというと暖地系のものが最近急激に勢力を伸ばしてきています。シュロなんかが天然状態で生えてくるというのは、最近ではもう静岡県ぐらいまでどんどん来ていますので、その点では森はかなり敏感に気候の変化を感じ取っているのかなという気はしているんですけれども。ササがあんまり激しく生えてしまいますと木が枯れてきてしまいますので、ことしの正月は一緒にササ刈りをしていました。
ササ刈りをしていましたら、ササの藪の中からお墓が出てきまして、しかも墓石が10ぐらいありますので、なかなか一つの固まりとして立派な墓なんですけれども、そこに墓があるとはぼくも知らなかった。ことしは新年会のときに村人に、あれは一体どこの墓なのか。ぼくはそこの家は先祖伝来の家ではなくて買った家ですので、もとの持ち主の家系の墓なのかと、こう聞きましたら、どうもそうではないらしいと。どうもあるときに1カ所に集めた墓場らしいんですけれども、そこの集落に代々住んでいる人たちに一生懸命聞きましても、遂にどこの家の流れの墓なのかさっぱり分からない。大変古い墓であることは確かですので、村のお墓というのは考えてみれば分からないお墓があったって一向に差し支えないわけで、しかし、何の縁か分からないけど、ぼくんちの山の中にあるから、それじゃあお正月はお供えものでもしておこうかなんていうような、そんな感覚です。
村人たちの感覚というのはそれに似たものがありまして、山の中を歩いていると神様が祀られているのが出てくる。ところが、何の神様なのかよく分からない神様の方が実際には村人よりもはるかに多いというような感じです。はっきりと、この神様は何の神様だと言われているのよりも、さて、何の神様だろうかと言われながらもそこにある。何の神様か分からないんだけれども、昔から人々が大事にしてきたんだから、やっぱり自分たちも大事にしていこうというような感覚です。ですから何となくお正月には掃除をしてお酒をあげたりしますし、そんな神々がたくさんいます。ここにあるものというのは、分からないんだけれども、ここで暮らしていく人間たちにとってはきっと大事なものだろう。
それともう一つ重要なことは、こういった村の中に点々とある神様というのは、自分たちと一緒にやはりこの村の時空の中で生きてきた神様という感じがあるのです。だから、もちろん本当にあなたは神様を信じているんですかとか、本当にそこに神様がいるんですかというような質問を受ければ、村人たちはみんな腕を組んで、ウーンと、こうなってしまいます。だけど、そんなことどうでもいいではないか、昔から神様が祀られ、自分たちと一緒にこの村の時空の中で暮らしてきたんだ、自分たちはこれからもこの村の時空の中で暮らしていくんだ、だったら神様だって同じ世界に生きている友達で