もんでしょうから、そこに上ができ、森ができ、現在のような生態系が生まれていく。それは今までの自然が生まれては死に、生まれては死にしながら蓄積し続けてできていった自然であろうという気がいたします。この蓄積された時間の中に今の自然も存在している。ところが、村に行きますと人間たちもまた同じで、今、私がいるのは戸数10戸程度の大変小さな集落なんですけれども、この小さな集落で村人たちが困ることなく暮らしていけるようになるにはやはり長い時間が必要だっただろうという気がいたします。
私のところなどは山の上をちょっと掘ればすぐ岩が出てくるところですけれども、そこに何十センチ、ときに1メートルにものぼる山が作られていて、そこが良好な畑になっています。ぼくも村にいるときは春から秋までは畑の耕作なんかもしています。畑の耕作をするたんびに、今までどれだけ多くの人たちがこの畑から石を除き、少しずつ平らにして、今、自分が営めるような畑を作ってくれたんだろうかということを感じます。
つまり、そういうふうに村人たちが長い時間を蓄積しながら、そこに畑を作り、集落を作り、あるいは水道を引き、水道も私のところは岩からしみ出てくる水を集落が共同で引いている水道ですので、水質は大変いいんですけれども、この水道を作っていった村人たちの営々とした努力とか、そういうものにいつも頭が下がる思いをしているんですけれども。つまり、自然も長い時間蓄積の中で暮らしていれば、人間もまた長い時間蓄積の中で今の営みをしている。この関係というものを大事にしていかなければいけないということを村にいるとつくづくと感じることがあります。
そういう視点から、自然が破壊されるとは何だろうかというふうに考えてみますと、自然がこれまで蓄積してきた時間を人間が短期的に収奪してしまうことだろうという気がいたします。例えば山の土が50センチできるのには一体どのくらいの年数がかかったのか、ぼくはそっちの専門家じゃありませんから分かりませんが、途方もない時間をかけて、この50センチの厚さの腐葉土層ができ上がっていったにちがいない。
しかし、それを人間がちょっと開発しようということでブルドーザーを入れて全部はがしてしまう。そうしますと森が再生しないような大地ができてしまう。こういうことというのは自然を壊したということとともに、今まで自然が長い期間を使って作ってきた、この蓄積された時間を人間が短期的に収奪してしまった、そういう気がしてならないのです。
同じように、戦後の社会というのは山村の社会を衰退するがままに任せてまいりました。私の村でも最盛期、4500人いた村人が現状では1500人程度になっています。また高齢化率、つまり65歳以上の人々の比率も、うちの村はもう40%に近づいています。ただ、これは見方を変えますと、村人の3人に一人以上が65歳以上の高齢者でも暮らしていける地域、これは一面では胸を張って自慢していいのではないかというふうにも思っています。
それに、その高齢者たちがそれでも暮らしていけるというのは、それだけ助け合っていける風土がまだ残っているからでもありますし、一面では村の行政も非常にきめの細かい行政をしているからでもあります。つまり、そういう点では高齢者が多いというのは、確かに村の活力という点では考えなければいけない問題もあるんですが、しかし、