らいのヤマメを1匹、彼の方がたちまち釣り上げました。その釣った魚を針から外して、また川に戻して、「それじゃ戻ろうか」って言うんです。ぼくはまた不平を言いまして、「こんな小さな魚1匹釣って、川に戻して、そのためにまた寒い思いをしている。何も釣らなくたっていいじゃないか」。そうしましたら彼が言うには、解禁日の仕事というのがあるんだと。解禁日というのは川の魚が冬を無事に過ごして春を迎えたということを一緒に確認するんだ。一緒に確認するにしては魚に痛い思いをさせてどうだろうかという気がしますけれども。つまり村人の感覚としては、やはり春を迎えるというのは魚たちも一緒に春を迎える。冬の間、魚たちよ、君たちも無事に冬を越したか、そんな感覚で解禁日を迎えている。ですから、都会から釣りに行って、魚、魚といって川を歩き回っている人々とはやっぱり違うものがございます。
結局、ここにあるものも魚たちの無事であり、魚の無事が保証されている川の無事です。ですから村人にとっては村の自然が無事であること、そして村の生活、村の社会が無事であること、そのとき私の世界も無事であるだろうという、そういう感覚。つまり、自然と村の社会と私とか私の家族とかいうものが同じ時空の中で無事な生活を営んでいる。逆に言いますと、そのどれかが無事ではなくなるとき、村人たちは不安を感じてまいります。
現在、ですから私の村はゴルフ場はありませんけれども、村人たちも生活のために山を売って、そこがゴルフ場になる場合だってあり得ます。それは生活のためにやむを得なく売ったりはするわけですけれども、村人たちは、とてもいいことをしたという感覚は持っていません。なぜならば、そこがゴルフ場になって自然が無事ではなくなっていく。そういうとき、いつかそれは自分たちに跳ね返ってきて、村も無事じゃなくなっていくときがあるだろうし、自分自身もこの村で無事に暮らせなくなっていくときがあるだろうという、そういう不安感を抱きながら、そういう様子を見ています。
ですので、「自然保護」という言葉は自分の外にある客観的な対象としての自然を人間がしっかり守ろうという発想です。それに対して「無事」という言葉で村人が表現しているものは、自分と同じ時空に生きているものたち、同じように生活しているものたち、そして、そのどちらかが無事でなくなるとき、みんなが無事でなくなってしまうような関係を持っている、こういう共同の世界の無事を祈っていく、そこに村人の無事の感覚があり、自然を大事にしていく感覚があったんだという気がいたします。
ですので、日本の地において自然という問題を考えていく場合に、この自然と人間とが同じ時間、空間を暮らし、ともに無事であり続ける、逆に言えばともに無事でなくなっていくかもしれない。この自然のとらえ方をどうやってもう一度復活させ定着させていくのか、そのことがとても重要だという気がいたします。
もう一つ、村に行くようになりまして、私も幾つか村人たちから学んだことがございます。その一つは、自然も人間も時間の蓄積の中で生きているんだということを学んだような気がしています。どういうことかといいますと、やはり自然の中で暮らしておりますと、その自然ができていくまでにかかったであろうこれまでの膨大な時間が、この自然の中に蓄積されているという気持ちになってまいります。
考えてみれば、地球ができたときには、地球なんていうものは溶岩の大地みたいな