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然保護も大事だって、こういう言い方をしますと、その自然保護が何となく日本語になっていないというんでしょうか、外から入ってきた言葉だなというような、そんな感じがあるのです。そのことに気がつきまして、では、村人たちはどんな言葉で自然保護に当たるような意味のことを言っていたんだろうかということを、しばらく村人の会話に注意深く耳を傾けていた時代がありました。

そのときに、あ、これかなと思いましたのは「自然の無事」という言葉です。つまり村人たちは、「自然は無事であってほしい」というふうによく表現をします。村人たちというのは、自然とそこに暮らす人間たちの間に、あちら側は外部の自然、こちら側は人間社会というような強い境界線は持っていないことが多く、例えば自然の状態を表現する場合でも、あるときに秋、キノコ狩りに山に行った。山に行ってみたらば秋で紅葉していて、日が当たっていて、とても森の中がきれいだったという場合があります。そういうときに村人がよく使う表現というのは、「きょうの森はうれしげだった」とか、「楽しげだった」とか、「華やいでいる」とか、そんなふうな表現をよく使います。つまり人間の感情を表現する言葉でそのまま森の感情を表現しています。

その逆に、久しぶりにある森に入って、キノコとりに行ってみたら、そのあたり一帯が切り尽くされていて非常に無残な姿だったという場合もございます。そういうときに村人がよく使うのは、「きょうの森は悲しげだね」っていう言い方をよくします。つまり、「破壊されてしまった」とか、「とてもいい状態で保存されている」とか、そういう言葉ではなくて、悲しげだったり、楽しげだったりする森。つまり、そういうふうに自分たちと時空を共有しているものとして自然を感じ取っています。ですから、その自然が無事に暮らしていること、これが村人にとっての伝統的な意味での自然保護の一つの表現だったという気がいたしました。

ある年、魚釣りする方はご存じかと思いますけれども、山の魚、ヤマメとかイワナという魚は解禁日がありまして、私の村は3月21日が解禁日になっています。つまり、冬場の産卵期は禁漁期間になっているわけですけれども。ある年の解禁日の日に村に行きまして、川におりていきました。ところが、3月21日で、まだ川原は雪が残っているし、寒いし、というので、ぼくはもともと釣りの人間なんですけれども、あんまり熱心じゃありませんし、また1日だけで帰ってくるわけでもありませんので、こんな寒い日に無理して釣らなくてもいいだろうというんで、川原におりていったけれども、すぐ戻ってきたことがあります。

そうしましたら、とある村人に会いました。彼も釣りが好きな人です。釣り人同士の会話というのは、「どうだった、釣れた?」って、こんな話なんですけれども。ぼくは「釣れなかったけれども、こんな寒い日に何も無理して釣ることないから、きょうはもう早々にやめることにした」と、こう言いました。そうしましたら、その村人が、「それはよくない。もう一遍釣ってくるべきである」と言いました。なんかふだんそんなことを言う方じゃありませんので、随分変わったことを言うなと思い、ぼくの方も四の五のごねていました。そうしたら彼が、「じゃあばくも一緒に行く」と言って家から釣り竿を持ってきまして、しょうがないんで二人してまた川に戻りました。

釣ったのは彼の方で、ぼくの方は横で見ていたんですけれども、ほんの15センチぐ

 

 

 

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