「自然の哲学・人間の哲学」
内山節 哲学者
司会 内山先生にお名刺をいただきましたら、真ん中にお名前がドンとあって、左側に住所が二つドンドンとあるお名刺をいただきました。どのようにご紹介申し上げましょうかとお聞きしましたら、群馬の上野村では村の人ですと、東京では世田谷に住んでいらっしゃるということで、群馬の上野村で、このお正月には山の木の伐採をお正月のお仕事としてされたということも承っております。
ナショナル・トラストの運動や環境の保全には、基本的にはどんなものの考え方で、将来、何を残したいかという考えが必要だと思いますが、「自然の哲学・人間の哲学」というタイトルで内山節先生にお話を承りたいと思います。それでは内山先生、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
内山 ご紹介いただきました内山です。今、ご紹介いただいたように、ぼくは東京と群馬県の山村の上野村の、正確に二重生活でもないんですけれども、行ったり来たりの生活をしています。正月は、今、紹介されたとおり伐採をやっていたんですけれども、実はぼくの山は人工林ではありませんで、以前は恐らく薪炭林として使われていただろうという天然林です。樹種から言いますと下の方はケヤキの木が多くて、上の方はコナラの木が多いという、ほかにも幾つか木が入っていますけれども、そんな場所です。
ところが、薪炭林も恐らく使わなくなって40年ぐらいたっているんだと思うんですけれども、そうなりますと薪炭林というのは切った後で萌芽更新してきて、下から、株から芽が出てきて森が再生していくんですけれども、これも40年もたちますと1本の株から、このぐらいの太さの木が5本ぐらい出ています。今の季節は葉っぱが落ちていますからいいんですけれども、夏になりますと葉っぱが完全に山を生い茂らせてしまいまして、天然林なのに林の中の下草が生えていないという状態です。つまり日が地面に差さなくなっているのです。
こうなりますと天然林でも、やはり荒廃天然林と言わざるを得なくて、若い木はまるで芽を出してきませんし、下草が生えていませんから雨なんか降りますと上が流れますので、これはいけないというので、ことしは皆伐の形で全部切ってしまうのではなくて、1本の株から5本ぐらいこういうのが出ていますので、それを2本ぐらいずつ切っていって少し山を明るくしよう。上の方にツツジなどの木もありますので、もう少し日が当たるようにしてあげれば、ことしは間に合わないかもしれませんけれど、来年あたりはツツジがたくさん咲くんではないかなと思っています。
これもものの考え方で難しいところがありまして、ぼくの山は林業の目的で使っている場所じゃありませんので、木がすくすくと育っていて、鳥とか動物が喜んでくれれば、それでいいという、そういう山ですので、ツツジもきれいなので、少し力をつけるように日当たりよくしてあげようと思っているんですけれども。林業家の立場で言えば、ツツジの咲く山なんていうのはもってのほかで、これは土壌が荒廃しているといいますか、上に栄養分がないということを証明していますので、ツツジが咲いてきたら林業地としては山は苦しいというのが普通の林業家の考え方です。
ですから、自然というのはおもしろいなと思っていますのは、どんな自然を自分が好むか、あるいは生活する上でどんな木がいいかで見方が全然変わってしまいます。