たんではなくて、市民が、自治体、自治体というのは中央の出先機関ではなくて、市民が作る、ローカル・ガバメントと英語ではいいます。まさに市民が作る政府として、そこが一緒になって問題を考えるのがまちづくりである。今までは中央から決めたことを、これでやれということになっていました。でも、そうではなくて、市民が自分たちの政府を作って、自分たちの地域のことを考えるということです。自発的な市民によるものだということは、ナショナルトラストと同じ考えです。
また私もさっき申し上げたとおりに、中央の官庁の経験をしておりますが、中央官庁ですと全部縦割りになっちゃうんですね。とてもトータルに環境問題なんて考えられないわけです。あっちの省はこうだ、こっちの省はこっち、こっちの省はこうだ、それぞれ担当のところがありますが、じゃあ一体その地域全体をどうするんだ。ただ地域が中央の指令をはいはいと言っていたら、タテワリでどうにもならなくなっちゃうんですね。
そうすると地域は自分たちの地域について責任を持つ。国民が主権者なんですから、そこは市民が主権者としての国民ですね、国家の主権者としての市民が自分たちの政府をこしらえて考えるんだ、これがまちづくりです。
ただ、ナショナル・トラストと、若干違うのは、ナショナル・トラストは全く任意にその問題が集まっていますね。自治体の場合には、現在のところ自動的にどこかの自治体に属しちゃっているんですね。属していない人はおりません。会員にならないとナショナル・トラストに入らないんです。自治体の方は自動的に入っちゃっているわけですね。ここが違うんです。自動的に嫌でも税金を取られちゃうんですね。その点ではナショナル・トラストの方がより自発的なものです。
しかし、じゃあそこが違うのかといっても案外似ているんですね。今、申し上げたような、ただ税金を取られているというのはただの住民です。しかし、アメリカ的なタックスペイヤーというのはただ取られているんではない、おれたち取られているんだから、それなりのものはちゃんと地域をちゃんとよくしてくれないと困るよ、税金もきちんと使ってくれないと因るよ、この地域をちゃんとしてくれないと困るよというような権利者でもあるんですね。そういう意味のタックスペイヤー。
だから自治体の場合でも自発的な意思が表現されていなければ、本来のこのまちづくりにはならない。ただ取られっぱなしという、そういう幽霊会員みたいなものになってしまうんです。そうすると自発性という意味の市民では、上のナショナル・トラスト運動と、このまちづくりの市民とは、本当は似てくるんですね。外形的には違います。任意加入か、いわば強制加入といいますか、違うんですが、実態的には同じことになるんではないかなというふうに思います。
じゃあそういう「まちづくり」という今日言われているような平仮名、このごろは中央官庁でもいろんな事業名にこの平仮名を盛んに使います。ただ、何となくはやりだから、この字を使っちゃった。この「まちづくり」という用語は中央官庁的な発想じゃなくて、地域的、市民的な発想に立つということがこの平仮名のまちづくりには意味が大きいんですね。
つまりこれまでの中央の官主導型の地域整備じゃどうもうまくいかない。それから