方を別としまして、物理的には少なくとも自然の環境、自然の大地を何らかの形で人間がいろいろ作業をしながら、こういうふうな町を作ったり地域を作ったりしてきたわけですね。
私は、つい4日ほど前、ネパールでマウンテンフライトというのをやりまして、ヒマラヤのエベレスト山のすぐもう目の前に、この辺のところに見えるというところを見てきました。あれは全くの自然ですし、人間の手がつかない、エベレストに登って征服したなんて言っているけど、全然征服でも何でもなくて、虫けらがちょっとなんかはい上がってきたというだけの話ですね。凄まじいもんですね、あのヒマラヤの山脈は、よく晴れていまして、全部見えましたけれども、そういう自然もありますね。
そんなところは手がつけらないですけれども、人間が手がつけられそうなところを手をつけて、そうして耕地を作ったり畑を作ったり、そしてその中に村を作ったり町を作ったりしてきて、我々がより快適な生活をできるようにしてきたわけです。しかし、その分だけもちろん自然は影響を受けますね。全く影響を受けないなんていうことはあり得ないんです。それをあくまでもトータルに考えるというのが環境の思想、それは極めて連鎖的な関係を考えることです。
ところが、どういうふうに連鎖しているかと、実は分かりません。そういう学問はありません。学問というのは全部縦割りになっておりますから、それぞれの分野ではあるんですけれども、その全部をつなぐなんていうものはないんですね。自分のところは自分のところを主張しているということだけですから、連鎖的に考える。それは本当の連鎖を全部考えることはできないんです。「風吹けば桶屋がもうかる」というのが落語やなんかにありますけれども、ああいう調子で、風が吹くと桶屋がもうかるところまで思わないところに変な連鎖があるわけですが、あれも一種の連鎖ですね。何か人間がやること、あるいは人間が生きていること、きょうハッと息を出す、これだって二酸化炭素が若干増えたわけで、全体として連鎖的に環境に影響を与えているわけです。
我々が生きていること、あるいは行動すること、そして何かやること、もうそのこと自体が環境に常に影響を与える。また環境がいろいろなさまざまな他の環境の影響を受けながら生物に影響している。我々がやることが一々環境に対する影響を受け、また環境相互間でもいろんなさまざまなかかわり合いを持っているというふうに認識するということなんですね。
こういうふうな環境認識という学問がなかったんですね、大体。今、環境学というのは随分盛んになってきまして、今、私なんか事務所を作りましてから10年たちまして、環境庁という庁もできましたし、私もそこの審議会の委員なぞをやらさせていただいておりましたが、しかし、やっぱりそれも縦割りの官庁環境なんですね。いろんなほかの省庁に対して環境庁というのは環境庁という縦割りなんです。官庁は縦割りなんですが、実際の環境というのは全部つながっている。さっきの有馬先生のお話もありましたとおりに、通産省や環境庁も一緒になってやらないとできない。それだけではなくて建設省から運輸省から何から一緒になって考えないと、この環境の問題はできませんね。あるいは教育が問題だということになると当然文部省も問題になるということですから。そういうふうなものが本来的に学問の体系としてもないし、官庁システムとしてもないし、