均人口は数万人である。つまり、アメリカ合衆国においては、憲章主義という社会契約的な自治体形成方法がそれなりのリアリティーを持つのに対し、旧ソ連圏においてはそれはフィクションにすぎない。?アメリカ合衆国においては普遍的な行政単位としてのカウンティーがあるため、住民には自治体を形成する必然性はない。逆に言えば、当該地で自治体憲章の締結が争点になった時点では、住民はある程度の関心を抱いている。ロシアの場合、1995年から97年にかけて、全ての市・地区がキャンペーン的に憲章草案を準備し、それを住民投票にかけることを強いられた。したがって、多くの場合、住民の関心は盛り上がらず、その意味でも憲章主義はフィクションにすぎなかった。?しかも、エリツィン憲法採択の際と同様、市・地区行政府が草案を準備し、地方議会を憲章草案検討に参加させず、しかも草案の(個々の重要項目ではなく)全文を一括して住民投票にかける場合があった。この場合、憲章主義の欺瞞性は議論の余地のないものとなろう。
別稿で論じなかったことをここで付け加えれば、法律により画一的に自治体の組織形態を定めるアプローチが否定されたためにかえって、自治憲章の準備過程がリージョン行政府の厳重な統制下に置かれる場合が多かった。連邦議会・リージョン議会が法律により自治体の組織形態選択の自由を制限するのはけしからんという主張は成り立つかもしれない。しかし、連邦議会・リージョン議会が規制するのなら、少なくともその経過はオープンである。これがないために、たとえば「村長は公選にするか、それとも地区行政府長官の任命にするか」といったほとんど憲法の骨格に関わる大問題が、リージョン行政府からの一片の通達や、著しい場合にはリージョン行政府による自治体への法律解釈上の助言=コンサルテーションという形で決定されたのである。
ロシアにおいては、憲章主義的な方向は1991年共和国地方自治法の検討過程で既に現れていた。ただし、この時点で、自治体の自己決定の自由が既存の権力関係を正当化・固定化してしまう結果を生むおそれが早くも指摘されていた(50)。結果的には、1991年ロシア共和国地方自治法は全国画一主義、つまり民主主義を上から植え付ける方針をとった。ロシアにおいて憲章主義が再び前面に押し出されるのは、1993年の大統領クーデター以降である。その理由としては、民主主義の外観を築きながら既存の権力関係(執行権力の優位)を固定化する必要性、似非アングロサクソン的な手続きによって十月事件の心理的な代償を地方指導者に与えようとしたこと、大急ぎで準備されたエリツィン憲法に地方自治に関する有意な条項を含めることができなかったことなどが考えられる。対照的に、同時期のウクライナの大統領派は、憲章主義とは逆に、執行権力の優位、「強い市長」制を国法に明記することを志向した。そのため、ウクライナ憲法には地方自治体の組織