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ての地方ソビエトをいったん自治体と認めて、それに国家権能を委任する大陸型の制度が導入されたのである。また、上記のうち市区を除くすべてのソビエト議長を住民の直接公選の対象とし、州と地区の国家行政府に替わって州・地区ソビエト執行委員会を復活した(第3条)。さらに、第8条は、大統領代表と地方国家行政府の権能は、対応する行政単位のソビエト議長とソビエト執行委員会に委譲されるとした。この法に対応して、クチュマ大統領も、8月6日、「地方における国家執行権力構造の指導の保障について」の布告(42)を発し、いまや国家機構から分離された州、地区のソビエト議長に国家権能を委任するシステムの形成に着手した。6月28日法によって、州と地区との国家化を中核とする1992年春の地方制度改革はいったん清算されたと言える。これが、独立ウクライナにおける「ソビエト権力」=大陸型地方制度建設の絶頂であった。

 

(5)1995年の再集権化

 

皮肉なことに、1994年選挙による「ソビエト権力」の再確立が、新しく選ばれた大統領と最高会議の間の憲法危機の最大の原因となった。クチュマは、1994年秋以降、2月3日法、6月28日法の内容を清算する「国家権力と地方統治」法案の実現に向けて、州ソビエトの指導部に働きかけた。選挙で選ばれた新ソビエト議長たちも、クチュマの提案に対して概して好意的であった(43)。決定的だったのは、クチュマが伝家の宝刀を抜き、大統領と最高会議への国民信任投票を実施すると脅したことだった。ロシアやベラルーシの「同僚」たちに比べれば先見の明があったウクライナの最高会議代議員たちは、この類の信任投票が議会廃止へ向けた露払いにほかならないことを見抜いていた。こうして最高会議は一方的に譲歩し、大統領との間で、有名な「憲法合意」(1995年6月8日)(44)が締結されたのである。この「憲法合意」は、州、キエフ市、セヴァストポリ市、地区を市町村から再び峻別し、そこには国家行政府をおくとした。ただし、それら国家行政府の長官には、1994年6月の選挙で選ばれたソビエト議長を、大統領が横滑り的に任命するとした(45)。ソビエト執行委員会の廃止・国家行政府の再導入によって、州と地区のソビエトは、再び権能の大半を失い、予算と決算の承認、地域の社会経済発展計画の承認、上記の二点についてのみ行政府長官の年次報告を聞き、質疑できるというミゼラブルな権能だけが残された(これは、クーデター体制期のロシアの地方議会の権能にほぼ等しい)。「憲法合意」に基づいて、たとえばリヴィウ州では1995年11月、州ソビエト執行委員会は州国家行政府に再改組された。

「憲法合意」は、市町村自治についても、1992年法が定め、1994年法が停止していたソビエト執行委員会編成にあたってのソビエト議長の単独責任原則を再度確

 

 

 

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