上に地方国家行政府を組織した。これらの行政単位においてソビエトそのものは存続したが、自前の執行機関を持たない住民代表機関は、事実上、存在意義を失った(38)。この改革によって議事進行役の地位に低められた州・地区ソビエト議長は、(市町村ソビエト議長とは異なって)住民によってではなくソビエトによって選ばれるとされた(3月26日法第52条)。
ロシアの大統領全権代表が地方行政府を監視する役割を果たすのに対して、ウクライナの大統領代表はみずから地方国家行政府の長となったのであり、したがって、名称は似ていてもロシアのそれとは異質なものである。
(4)1994年の再分権化
1993年の経済・政治危機を受けて、1994年には最高会議と大統領の繰り上げ選挙が行なわれることになった。最高会議は反クラフチュク姿勢を強め、地方制度を再分権化する目的で、94年2月3日、「権力の地方機関と地方自治の形成について」の法を採択した(39)。この法は、第1条において、市町村、地区、州ソビエトの全てを「自治体」とし、その上で、州、地区、キエフおよびセヴァストポリ市ソビエトは自治体であると同時に「国家権力機関の機能を執行する」とした。その結果、1992年春の改革の際に州・地区ソビエトから奪われた権能がかなりの程度戻された。この地方制度改革を置き土産として、1990年春に選挙された最高会議は3、4月に改選されたのである。
2月3日法に基づいて、1994年6月26日には、大統領選挙と並行して、州、地区、市町村ソビエト代議員およびその議長の直接選挙が行なわれることになった。公選されるソビエト議長が執行権力の長も兼ねることは事前に明らかになっていたので、これは事実上の各級首長選挙であった。クラフチュクは大統領選挙と地方選挙の延期を画策したが、選挙は予定通り行なわれ、クラフチュクの敗北に終わった。地方選挙後、「大統領代表について」の法は失効し、大統領代表と地方国家行政府の制度は廃止された。1994年に選ばれた地方ソビエトは、規模的には、古典的なソビエトよりも西側の地方議会に近いものとなった。リヴィウ州を例にとれば、1990年選出の州ソビエトの代議員定数が200名であったのに対し、1994年州ソビエトのそれは75名、1990年選出のリヴィウ市ソビエトの代議員定数が150名であったのに対し、1994年市ソビエトのそれは50名であった(40)。
上記の過程と並行して、6月28日、新最高会議が、上述の2月3日法をさらに分権主義化する修正法(41)を採択した。この修正法は、市町村、地区、市区、州ソビエトを一括して地方自治体と認め、それらソビエトの議長は「法の規定する範囲内で彼らに委任された国家執行権力を実現する」とした(第1条)。つまり、全