よりも)ルーマニア、クロアチア、スロヴァキアのようなヨリ東の国々なのである。筆者の手元に再分権化に関する資料が乏しいため、1997年時点で集権型と中間型の間の地理的境界がどこにあるのかをここで示すことはできない。 しかしいずれにせよ、中間型の典型としてのウクライナが、バルカン諸国やスロヴァキア、そしていわゆる「新東欧」の地方制度を考察する上でも有益なモデルを提示することは間違いない。
以上のような地方制度の差を生んだ制度論的・環境的な背景は、本稿第3節(1)において考察される。ここではより本質的な、体制転換とエリートの再編という問題について触れたい。成熟社会主義体制期(1970年代以降)におけるリージョン・地区レベルでの党指導者権力の事実上の自立化=「封建化」、その背景としての指導者(ボス)間のクライエンタリズム(縁故後見主義)は、ソ連においてはその社会的・文化的土壌にマッチするものとしてそれなりにうまく機能していた。対照的に、より近代化が進んだ東中欧諸国においては、中間レベルのボスの過大な権力は、当時から中央権力、市町村指導者双方の側からの不満を呼んでいた。このため、旧体制の崩壊に際して、より改革的な中央政府と市町村指導者の間で、より保守的とみなされた県・郡レベルの指導者に対抗する統一戦線が成立し、後者を挟撃した(3)。それに加え、東中欧諸国では旧体制のエリートがいったんは野に下り、新しいゲームのルールに習熟して復活した。以上の結果、比例代表選挙制に支えられ、中央・地方を包摂する複数政党制が出現した。つまり、東中欧型の政治システムは、集権的な官僚制と全国的な複数政党制が表裏一体をなすものとなったのである。ロシアの場合、旧体制のエリートがそのまま権力の座に居残ったのみならず、ゲームのルールは交代せず、起こったのは旧いゲームのルール(リージョン・地区指導者のボス化、クライエンタリズム、国家機構の選挙時の動員)と新しいゲームのルール(それなりに多元主義的な選挙(4))、イメージ・メイキングをはじめとする選挙テクノロジーの突出した発達)の結合であった。その結果出現したのは、アメリカ合衆国の大都市や南イタリアでかつて機能していたマシーン政治、トラスフォルミズモ(万年与党主義)の現代版であった(5))。エリツィンが1996年の大統領選挙を延期しなかったのは、国際的な「民主化」圧力に配慮したからではない(そもそも国際的な「民主化」圧力は選挙延期に傾いていた)。人体が血液を必要とするように、この体制が選挙を必要とするからである。
エリツィン権威主義体制が、リージョンレベルのエリートの緩やかな連合体としてのみ形成されえた事情は、筆者が別稿で検討したい(6)。新たにその事情を要約すれば、?1990-91年の政治危機期において各リージョンのエリートが自らのリージョンの政治情勢に適合した形で生き残り戦略を展開し、エリツィンはそれを束ねて全