国的な「行政府党」を形成した。?ガイダール改革が中央レベルでの産業政策を放棄するものであったため、リージョン政府が(社会主義時代はモスクワに直属していた)リージョンの巨大企業の状態に責任を負うようになった(7)。?1994年以降、大統領派は革命的ロマン主義を捨て、リージョンレベルのエリートと妥協する戦略を採った。?前掲の?に類似した事態であるが、政治警察(FSB)や軍事機構もまた、当てにならないモスクワよりも直接に自分を養ってくれるリージョン政府に対してより大きな忠誠を感じるようになった(8)。?全国的なノメンクラトゥーラ制が崩壊したため、トップ・エリートのリージョン間の移動がほとんどなくなった。したがって、権力者が自分のリージョンで政治闘争に敗れることは、そのまま政治的な死を意味するようになった。1996年知事選挙後の人事異動が示したように、リージョンで政権交代が起こった際に、敗北した側でモスクワで「名誉ある閑職」を得ることができるのはせいぜい前職知事くらいであり、彼の腹心の部下たち(知事代理など)はビジネスに転ずるか、新行政府のはるかに低い地位で働くかしなければならない(9)。
このロシアについての概観と、ウクライナの状況とを仮説的に対比することは容易である。第一に、ウクライナにおいては旧体制の指導者は1990年春に一気に更迭されてしまうか(ハリチナ)、ロシアほどの危機に曝されずに生き残ったか(大ウクライナ=ハリチナを除くウクライナ)いずれかであり、いずれにせよ、ロシアにおいて「行政府党」形成の背景にあった旧体制エリートの生き残りという動機が希薄であった。第二に、ウクライナ政府はマネタリスト的な政策をとらなかったので、産業政策の主導権を握り、州への利益分配の梃子を握り続けることができた。第三に、単一主権国家であり、州・地区行政府が国家機構であるおかげで、全国的なエリートの異動を伴う幹部政策を展開する可能性が政府に残されている。第四に、報道テクノロジー、選挙テクノロジーが劣悪なので、現代的マシーン政治を展開する技術的前提がない。こうして、成熟社会主義期におけるクライエンタリズムの発達の度合いにおいて、ウクライナはロシアをおそらく凌駕していたにもかかわらず、旧体制崩壊後、州・地区ボスの連合体としての「行政府党」がロシア並みに発達することはなかったのである。その反面として、全国的な政党システムは(ウクライナがいまだに一度も比例代表制に基づく議会選挙を経験していないにもかかわらず!)東中欧ほどではないにせよロシアよりは発達したのである。
上に列挙したような仮説を実証できれば素晴らしいことであるが、ロシアにおいて7リージョン、約20の地区・市において現地調査をこれまでに行ったのと対比して、筆者のウクライナ研究の到達点はさほど高くない(1州、2地区で現地調査)。そこで本稿では、中間型の地方制度が形成された立法過程を押さえ(第3節)、リヴィウ州の事例研究を通じて、中間型制度形成の政治社会学的な背景・含意を可能な