(57) たとえば、第1回投票後に発表されたチェレプコーフの選挙民への謝辞「我々は一山いくらの劣等人間ではない!」のトーンは次のようなものである:「生まれ育ったまちの通りを歩くとき、いまでも私は、私を支持する手書きのビラが壁に張ってあり、手作りのプラカードが立っているのを見る。電話に必死で手を伸ばして、善良な人々全てに私への支持を訴えてくれた寝たきりの障害者の人々、どうもありがとう」(Utro Rossii,19 ? 93,P.1)。
(58) 前出のN.V.フストフスカヤ、V.A.ペトローワからの聞き取り(12月19日)。
(59) 小ソビエトは、リージョン、地区、市のソビエトが常設議会でなく、時限的にしか召集されないことを補うため、ソビエト代議員の中から選ばれた常設機関。ソビエトの閉会中にその権限をかなりの程度代行した。1991年末以降、設置されるようになった。
(60) Leonid Bel'tiukov,”Kto vy,gospadin Nagdrachenko?”Primor'e, No.81,spetsvypusk 10 Xl 97,pp.4-5.
(61) 小森田 94 上、pp.71-72.
(62) 経歴は、『沿海地方における政治的エリート』人物番号 107 参照。
(63) 経歴は、同上人物番号 69 参照。
(64) 前掲グリンチェンコからの聞き取り(12月24日)。また、この過程は、藤本 1995、p.18にも触れてある。私見では、この時期のナズドラチェンコ派の「分裂」は、そもそも前年にナズドラチェンコを推した勢力が多種多様であったことの当然の結果であって、その点で、レベヂーネツ地方議会議長の謀反に代表される翌95年の分裂とは性格が異なる。
(65) Vladivostok,6 X1 91,p.1.
(66) 小森田 94 上、p.72;藤本 95、P.15。沿海地方からのもうひとりの上院当選者は、先住民達動家のエヴドーキヤ・ガーエルであった。
(67) 経歴は『沿海地方における政治的エリート』人物番号 60 を参照。
(68) 『ロシア連邦法規集成』No.21(26 V 97)、p.4160。
(69) 『ロシア連邦法規集成』No.23(9 ? 97)、p.4462。
(70) 前出のN.V.フストフスカヤ、V.A.ペトローワからの聞き取り(12月19日)。
(71) 1997年12月現在の連邦出納庁沿海地方局長はモストヴァヤ、ガリーナ・ドミトリエヴナ。なお、連邦出納庁地方局長職と副知事職の兼任は、望ましいことではないが違法とまでは言えないそうである。というのは、連邦出納庁の基本的な役割は連邦税の徴収・上納を円滑ならしめることであり(この点では沿海地方は優等生である)、他方、連邦予算からのトランスフェルトは、既述の通り目的を限定しない支出であるので、クライ行政府がそれをどう使うかということについて連邦出納庁は統制機能を果たさないからである(前出のシェレメチェフ連邦出納庁沿海地方局長代理からの聞き取り)。
(72) ナズドラチェンコによれば、ウラジオストク市財政にまつわる様々な疑惑から、連邦大蔵省統制監査局(kontrol'no‐revizionnoe upravlenie、我国の会計検査院に該当するスチョトナヤ・パラータがあまり強力な機関ではないので、この局が会計検査院の役割を事実上果たしている)が市庁の会計検査を行おうとしたが、コンドラートフはこれを阻止する方向で動いたようである(E Nazdratenko,”Nuzhna konstruktivnaia rabota",Vladivostok,23 ? 97,p.4.)。
(73) 前掲”Nuzhna konstruktivnaia rabota"。
(74) ”Pobeda pravoi ruki Prezidenta nad levoi”,Vladivostok,6 XI 96,p.l2
(75) 藤本 97,pp.14-15。
(76) ロシア語に忠実に訳せば「知事代理」である。日本の副知事とは異なって、かつてのソビエト執行委員会がやや縮小されたもので、通常のリージョンでは10人弱がこの職に任命される。1997年12月の時点で沿海地方行政府には12人の副知事がいる。
(77) ただし、沿海地方で筆者が面談した人の中でも、たとえばクリーロフ極東大学学長(法学博士)はおそらく純金の腕時計をし、鼈甲製の携帯電話を使っていた。いうまでもないことだが、モスクワ大学、サンクトペテルブルク大学、ウラル大学などの学長が純金の腕時計をしているなどということはあり得ない。こうしたところにも、沿海地方政治の特質が現れている。