を、地区や市と対等の国家行政=地方自治単位に引き上げたことである。この二点のいずれもが憲法違反、連邦地方自治法違反の疑いが濃いものであるが、これにより、市区行政府は今後も存続しうるのみならず市庁を迂回してクライ権力に直属するお墨付きを得たのである。
司法機構も旧来の市区行政府を応援した。まず、5市区検察官全員が10月9日付市長令の違法性を主張、そして、たとえばレーニンスキー市区裁判所は1996年12月末にこの訴えを認めた(98)。さらに、1996年末に採択された「ロシア連邦市民の地方自治機関への選挙権・被選挙権についての憲法的権利の保障に関する」連邦法を根拠として、1997年3月30日に市庁が予定していた市議選、市憲章レファレンダムに併せて、市区自治体長と市区議会の選挙を行うべきことを5市区の検察官が主張し、裁判所もこれを認めたのである(99)。旧来の市区行政府長官はみな市区自治体長に立候補し、公選されることによって自らの地位を確保しようとした。既述の通り、3月30日選挙の投票率は非常に低かったので、5市区のうちペルブォマイスキー市区でしか、市区自治体長は選ばれなかった(市区議会議員もほとんど選ばれなかった)。後に、このペルヴォマイスキー市区選挙において大量の票の偽造(水増し)がなされたことを裁判所は認めたが、「選出された」市区自治体長は依然として「公選された自治体長」を名乗り、市区行政府の建物を占拠し続けている(100)。
クライ議会選挙が行われた1997年12月7日には、このペルヴォマイスキー市区を除く4市区で、市区自治体長の再選挙が行われた。今度ばかりは(クライ議会と同時選挙であるから)選挙そのものは成立することが予想されたので、チェレプコーフは、「全ての候補に反対」票を投ずるよう市民に呼びかけ、実際に4市区全てにおいて、「全ての候補に反対」票が最多となり、市区自治体長は一人も補充されなかった(市区議員も再びほとんど選ばれなかった)。市民がこのように投票したのは、ナズドラチェンコとの対抗でチェレプコーフを支持しているというよりも、市区レベルの自治は冗費冗官を生むという意見が浸透しているからであろう。早くもこの12月末、フルンゼンスキー市区選挙管理委員会は、市区自治体長の再々選挙を1998年3月1日に行うことを決定し(101)、ほかの市区選挙管理委員会もこれに倣うと予想されている。そのわずか1か月後(3月30日)に予定されている市長選・市議選と同日投票に敢えてしなかったのは、(ナズドラチェンコ=トルストシェイン派が支配する)市区選挙管理委員会が(チェレプコーフ派が支配する)市選挙管理委員会の統制を受けたくなかったからであろう。
市区の二重権力の実態を知りたいと考えた筆者は、レーニンスキー市区管理人ウラヂーミル・ポタポヴィチと面談した。市区行政府=管理局の建物の廊下から