日本財団 図書館


んで、1993年以来のチェレプコーフ市政の2本柱であった。ただし、いずれについても本格的に着手できたのは、最初の任期(93年6月の当選から94年3月の解任まで)ではなく、1996年9月の復職後である。このうち、公共サービス供給機構改革をめぐっては労働組合との厳しい対立が生まれ、例によって銃撃沙汰も起こったが、残念ながら本稿ではこれを割愛し、市区改革についてのみ説明することにする。

1993年6月に市長に当選して間もなく、まだソビエト制が存続していた時期であったにもかかわらず、チェレプコーフは市単一財政への移行を掲げた。これは市に五つある市区の行政府長官との紛争を生み、11月2日には5市区行政府長官全員が市への帰属を離れてクライに直属することをクライ行政府に請願した。当時ペルヴォレーチェンスキー市区行政府長官であったトルストシェインはその立て役者のひとりであった(94)。これとの対抗上、チェレプコーフは半自治体としての市区の廃止を前提とした市憲章草案への賛否を問うレファレンダムを、1994年3月27日の市議選と同日に行おうとしたが、これはチェレプコーフ自身の解任により頓挫した(95)。

1996年9月に復職したチェレプコーフは、翌10月9日付市長令をもって市区改革を断行した。市区行政府は、市庁の出先機関としての市区管理局に改変され、その長は、同時に副市長としての肩書きを持つ市区管理人(upravliaiushchii territoriei raiona)とされた。トルストシェイン派の旧来の市区行政府長官は解任された。しかし、市議会も市憲章も存在していないウラジオストク市においてこのような根本的改革を行う法的根拠は薄弱であり、旧来の市区行政府長官はこれを違法と主張して、「市区行政府長官」を自称し続け、また市区行政府の建物を占拠し続けた。こうして、ウラジオストク市の市区レベルでは、旧来の市区行政府長官と、チェレプコーフから新たに任命された市区管理人と副市長との二重権力が生まれてしまったのである。

旧来の市区行政府長官には、クライ議会の側からの立法面での援助が寄せられた。その最たるものは、1997年9月26日に採択された「沿海地方の行政領域区分に関する」沿海地方法(96)である。これは、この約2か月後に改選された第1期議会の最後の置き土産とでも呼ぶべきものである。この法には二つのポイントがある。第一は、地区、市などの領域区分を国家行政の単位であると同時に地方自治の単位であるとしたことである。国家行政と地方自治とが同じ地理的領域に展開されていることが多い日本の読者にはこの規定は当然であるかのように思われるかもしれないが、ロシアの文脈では、これは国家機関と地方自治体との組織的区分そのものを否定するものと考えてよい(97)。第二は、ウラジオストク市内の市区

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION