日本財団 図書館


施したが、定数22名中1名しか当選者を出すことができなかった[2回目の死産]。翌97年3月30日、市憲章のレファレンダム、市区自治体長選挙(次節参照)と併せて市議会再選挙が行われたが、ここでも2名しか当選者を出すことができなかった[3回目の死産](91)。投票率の低さからレファレンダムも不成立となり、その結果、ウラジオストク市は1997年12月時点で市憲章をまだ有していない。この頃になると、もはやマスコミも白けきっており、候補者の経歴・政策さえまともに報道されない状況であった。上述の2回の選挙のうち、とくに1997年3月30日の選挙については、市憲章の採択がかかっていたこともあり、市庁はかなり本気で取り組んだと考えられるが、惨めな結果に終わった。次節に述べる市区機構の改編問題がたたって、票を動員するメカニズムが機能しなかったのではないかと考えられる。

1997年12月7日に沿海地方議会の改選がなされることが決まると、同日に市議会の再々選挙を行うよう、(ナズドラチェンコ派が支配していた)第1期沿海地方議会は市庁に圧力をかけた。しかし、クライ議会選挙と市議会選挙が同時に行われることになれば、市議選にあたって(チェレプコーフ派が支配する)市選挙管理委員会は(ナズドラチェンコ派が支配する)クライ選挙管理委員会の統制に服さなければならなくなる。これを嫌う市庁は、12月7日に市議会の再々選挙を行わなかった[3回目の流産](92)。こうして、市議会再々選挙は、市長選が予定されている1998年3月29日に同日選挙として行われることになった。チェレプコーフ(もしくはその後継者)が権力を維持できるか否かについて市民の関心が高い市長選と同日に行われることから、今度は市議会は成立するとみられている(つまり、それぞれ3回の流産、死産の後の7度目の正直である)。

「ロシアでは有権者が誰に投票するかよりも誰が票を数えるかの方が重要」とよく言われるが、ウラジオストク市議選をめぐる顛末ほど、この言葉を典型的に体現するものはない。つまり、もし選挙が敵方のイニシアチブで(つまり敵方に支配された選挙管理委員会の下で)行わなければならないのならば、選挙そのものを違法とし中止させることに全力を注ぐ。それができない場合、市民が市議選には関心を失っていることを利用して、野党としての選挙運動には取り組まず低投票率による不成立を待つという戦法を、トルストシェイン派もチェレプコーフ派もとってきたのである。その結果、ウラジオストク市民は市政への自らの代表を持たないままに4年を経過する羽目になり、他方、市庁は予算・決算上の統制を誰からも受けないですんでいるのである。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION