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対立する大統領全権代表とウラジオストク市長を更迭させ、全てのレベルにおける議会が存在していない状況下で知事選を行っていたとすれば、選挙管理委員会、司法機構、マスコミを思うがままに操れただろう。流産に終わった10月7日知事選は、1993年十月事件に始まった沿海地方における一連のクーデター的措置の総仕上げとなるはずであった。実際には、クライ・市の議会選挙の半年延期と知事選実施の試みのいずれもが違法の疑義を呼び、クライにおいていくつかの訴訟を惹起した(87)。また、反ナズドラチェンコの一点で、モスクワにおける民主派政治家(ガイダール、ヤヴリンスキー、ボリス・フョードロフ、シャフライ)を久々に結束させた。これらの圧力を受けて、エリツィンは投票予定日ぎりぎりの10月3日に沿海地方知事選の中止を命じたのである(88)。

こうして1994年10月23日、官選知事ナズドラチェンコの下でクライ議会とウラジオストク市議会の選挙が行われた。クライ議会には既述の通り議員定数39名中19名が選ばれたが、ウラジオストク市議会には議員定数22名(89)中2名しか選ばれないという惨めな結果に終わった。そのほかの20選挙区では投票率が25%に達しなかったか、「全ての候補に反対」票が多かったのである[1回目の死産]。ロシアの選挙法によれば、このような場合、選挙管理委員会のイニシアチブで、翌95年1月15日に行われたクライ議会再選挙、同年12月17日に行われた連邦議会下院選挙とクライ議会再々選挙の同日投票などに合わせてウラジオストク市議会の再選挙を行うべきだったが、それはなされなかった。その理由は、?議会の統制を受けたくないというトルストシェイン市長の思惑、?市議会を持つことによってウラジオストク市が多少なりとも自立性を持つことに対するクライ指導部の恐れ、?94年10月23日の投票結果があまりにも悲惨だったので、市議会の不在という争点そのものが「凍てついてしまった」こと、であった。

1996年夏、チェレプコーフ復職の公算が大きくなると、トルストシェインは、その年の10月に向けてばたばたと市長選、市議選を準備した。その方法は1994年にナズドラチェンコが行おうとしたのと全く同じであり、10月初旬にまず市長選のみを行い、約2週間遅れて市議選を行うというものだった。そもそもこのような日程の設定そのものが現職(トルストシェイン)の側からの大量の選挙違反を企図したものであることを論証するのがさほど困難でないことは、1994年のナズドラチェンコの場合と同様であった。チェレプコーフ派は、この市長選・市議会選実施の試みを違法と認めさせる訴訟に勝った[2回目の流産](90)。こうしてトルストシェインは、自分自身が公選市長として居座ることも、自分の息のかかつた置き土産(市議会)をチェレプコーフに残してゆくこともできなかったのである。

チェレプコーフの復職後、新しい市指導部は1996年12月22日に市議会選挙を実

 

 

 

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