1994年に入ると、そもそも同床異夢であったナズドラチェンコ支持陣営が離散し始めた。それぞれがナズドラチェンコに自分の願望を託していたにすぎなかったことを自覚したのである。この時期にナズドラチェンコの下を去った人物としては、「パクト」の創設者の一人であったアナトーリー・パブロフ、『赤旗』編集長としてかつて反クズネツォフ・キャンペーンを張ったウラヂーミル・シュクラボーフ(62)、クライの最大企業の一つ「ヴァリャグ」社長エヴゲーニー・レオーノフ(63)、1988年以来の民主活動家で、当時クライ憲章作成の中心人物であったイリヤ・グリンチェンコらが挙げられる(64)。
十月事件直後にナズドラチェンコのライバルとして浮上したのは、沿海地方大統領全権代表ワレーリー・ブートフであった。彼は、1991年10月24日の任命時に51歳(したがって、おそらく1940年生)、沿海地方出身、軍人法律家として太平洋艦隊などを中心としてキャリアを積んできた。任命以前はユジノサハリンスク市ソビエト議長であったが、同市ソビエト執行委員会とサハリン州ソビエト執行委員会議長ワレンチン・フョードロフの間の紛争を仲裁した政治手腕が認められて、生まれ故郷である沿海地方の大統領全権代表に任命された(65)。クズネツォフ時代は知事と大統領全権代表の間の関係は良好であったが、知事がナズドラチェンコに替わってからは緊張が生まれ、10月以降は、「極東共和国」宣言や「パクト」との結びつきなどを理由に、ブートフはナズドラチェンコを公然と批判し始めた。しかし、この批判も、それに先立つソビエトの強引な解散もナズドラチェンコの人気を揺るがすには至らず、12月の連邦議会連邦会議(上院)選挙においては、ナズドラチェンコが65.4%の得票で当選した(66)。この選挙結果によってブートフの命運は絶たれ、翌94年1月には彼は解任された。
ブートフの後を継いだのは、スパースク市長だったウラヂーミル・イグナチェンコ(1948年生)であった(67)。任命制下における市長とは要するに当該リージョンの知事の子分にほかならなかったから、大統領権力を代表してナズドラチェンコを監視するなどという役割をイグナチェンコが果たせないことは自明であった。当該地の知事の腹心の部下の中から大統領全権代表が任命されるプラクティス自体は1994年以降の全国的な趨勢であったが、人口5万人に過ぎないスパースクという小都市の市長がいきなり大統領全権代表に任命されたことは、上述の趨勢を前提としてもなお、いかにも不細工な選択にほかならなかった。実際、イグナチェンコはナズドラチェンコの賞賛ラッパしか吹けず、リージョン・エリートとの妥協という大統領派の総路線を前提としてもなお、彼が役不足であることは明らかとなった。こうして、イグナチェンコの更迭はかなり早い時点で既定のことであった。にもかかわらず彼が3年半も大統領全権代表職に留まることができたの