は、後継者が決まらなかったからである。すなわち、ナズドラチェンコの提示した候補者の中からイグナチェンコよりましな後継者を選ぶか、それともナズドラチェンコを本当に監視しうる人物を任命するのか、大統領派は決めかねていたのである。1996年以降の沿海地方をめぐる政治情勢は、大統領派に後者の方向での決断を強いた。こうして、1997年5月23日付大統領布告によりイグナチェンコは解任され、同日、連邦保安庁沿海地方局長コンドラートフが大統領全権代表として任命された(68)。「ナズドラチェンコ親分」は解任されたイグナチェンコを見捨てるようなことはせず、自分の副知事の一人に暖かく迎えた(この点は、イグナチェンヨに先駆けて職=ウラジオストク市長職を失ったコンスタンチン・トルストシェインについても同様である)。
大統領全権代表就任後のコンドラートフは、 6月4日付大統領布告によって、クライにおけるエネルギー政策と連邦財源から拠出された資金(トランスフェルト、補助金その他)の支出一般とを統制する権限を与えられた(69)。これは、通常の大統領全権代表が果たしている統制機能とは異なって、知事の専権領域の侵害にほかならない。就任後、コンドラートフは連邦保安庁指導者としての職権を生かして、ナズドラチェンコにほぼ完全に支配されていた地元マスコミへの働きかけを強化した(70)。また、連邦出納庁沿海地方局長ニコライ・サドムスキーが同時にナズドラチェンコ知事の財政担当代理(副知事)であるといった不正常な事態を是正し、沿海地方における連邦出先機関とクライ権力の慣れ合いにメスを入れ始めた(71)。 しかし、クライの検察、警察、裁判所というナズドラチェンコ派の「聖域」には手をつけられないでいる。KGB流の隠語を用いれば、「コンドラートフの手の長さは十分ではない」のである。しかも、ナズドラチェンコと対立するチェレプコーフ市長に対しては(ナズドラチェンコに負けず劣らず乱脈財政の疑義が持たれているにもかかわらず)擁護的な姿勢をとっているため(72)、就任後半年間で、「コンドラートフはチュバイスの代理人、チェレプコーフのパトロン」といったイメージがクライに流布し、「厳格な法の執行者」「さすがFSB」といった名声を得られないでいる。1997年12月23日に報道された、ナズドラチェンコからコンドラートフに宛てた公開書簡「建設的な仕事が必要である」(73)は挑戦的な口調で書かれているが、これは上述のコンドラートフの弱点を突いたものであろう。
1994年1月のブートフ解任の後、ナズドラチェンコ独裁に抗する最後の砦となったのは市庁=チェレプコーフ派であった。ナズドラチェンコ側は、チェレプコーフを追い落とすにあたって、第一に彼の行政能力の低さを批判し、第二に収賄の嫌疑をかけた。1994年3月16日には、後者を理由として、チェレプコーフは約100人の警官隊によって実力で市庁舎から排除された。収賄そのものについては、