(3) ナズドラチェンコ独裁とその終焉:1994-1997年
本節を読むにあたっては、図表1を再度参照せよ。「パクト」派のいわばダークホースとして権力を獲得したナズドラチェンコであったが、もとより「パクト」の繰人形に終わる人物ではなく、1993年後半から1994年前半にかけて独裁体制を確立する。彼は、まず第一に、十月事件を好機として、つい5か月前に自分を歓呼して迎えたクライと市・地区の諸ソビエトを廃絶した。十月事件後の地方ソビエトの廃絶そのものは全国的な現象であったが、その具体的経過としては次の五つのパターンがあった。?新地方議会が成立する1994年春まで州ソビエトが存続したニジェゴロド州の例。ただしこれは、ネムツォーフ知事がエリツィンの寵児であったからこそ実現できた例外的事例にすぎない。?州の小ソビエトもしくはソビエトが、新地方議会の選挙規程を採択してから解散した例(トヴエーリ州など)。知事が穏健な人物の場合、これが可能である。この場合、新地方議会はソビエトの法的後継者として成立し、相対的に大きな正当性を享受することができる。?知事が州ソビエトに自主解散を勧告したがソビエトはこれを拒否。結局、前者が強権的にソビエトを解散し、行政府が準備した選挙規程に基づいて新地方議会が選ばれた例(タンボフ州など)。?知事が最初から州ソビエトを解散、しかしソビエト側がさして抵抗しなかった例(サマーラ州など)。?州ソビエトが新地方議会の選挙規程も準備しないままに自主解散した例(ウリヤノフスク州など)。沿海地方における「ソビエト権力」の清算は、?と?の中間の形態をとった。すなわち、十月事件後、クライ・ソビエト議長グジゴローヴィチは?を志向し、連邦議会選挙が予定されていた12月12日に沿海地方議会選挙を同時に行うことを前提とした選挙規程を公表した。ところがナズドラチェンコは一方的にクライ・ソビエトの解散を宣言、これに対してクライ・ソビエトは抵抗することもなく、自主解散したのである。いったん準備されたソビエト側の選挙規程も破棄された(60)。
当のナズドラチェンコ自身、最高会議の権限停止を命じた9月21日付大統領布告から10月5日に武力決着がつくまでの期間はどっちつかずの態度をとっていたのだから、上述のような強硬姿勢は、エリツィン大統領を支持しソビエト廃止を支持する者の目からみてもかなり見苦しい、火事場泥棒的対応にほかならなかった。他方、沿海地方ソビエトの弱腰は、クライにおける共産党体制崩壊時における党幹部の積極的転向の際に見られたのと同様、筋を通して抵抗することを馬鹿馬鹿しく感じさせるほどの美味しいパイの分配がクライで進行していたことを反映している。ここにも、「北のペリフェリー」に固有の事情がみられるのである。また、この時期はクライにおける左翼野党がまだ弱体で、選択肢?はありえなかった点も考慮しなければならない。