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し、「パクト」を旧ノメンクラトゥーラの逆襲とみなす反エリート的な民衆感情を利用したチェレプコーフが前面にでたのである。こうして、クライ権力とウラジオストク市権力とは分極化することになった(図表1参照)。

「パクト」が歴史的事柄となったいま言えることは、それが差し迫る私有化とクズネツォフ体制の行き詰まりという時限的な状況に対応するためのものであり、政党システム外・議会外で諸集団の利益を調整し、政権の長期的な基盤となるようなコーポラティズム型の組織ではなかったということである。したがって、上記の課題が達成されたときに「パクト」が解消したのは当然のことだった。ナズドラチェンコ体制下の私有化が法治主義の見地からは問題が多いものだったことは、既に小森田、藤本などによって指摘されている。次に掲げるのは、反ナズドラチェンコ派の新聞『沿海』に掲載された1998年の私有化の描写である。

8月から11月までのたった4か月間で、クライ行政府は、予算外ファンドから「パクト」系の企業に約5億ルーブルの特恵補助金を与えた。...他方、1993年の9か月間の環境保護関連の歳出は、当初の予算の3.5%でしかなかった。...もしこの5億ルーブルの信用が競争入札原理に基づいて与えられていたら、それを4倍化することさえできただろう。...

株式会社「パクト」は、私有化された企業の労働者と、非常に面白い債務契約を結んだ。それによれば、労働集団構成員としての労働者の株の50%は株式会社「パクト」の所有下に入り、債権者(ママ)が担保義務を果たせない場合は、残り50%も「パクト」の所有となった。簡単に言えば、「パクト」の発起人であるところの企業長は、自然人として「パクト」からクレジットを供与され、その担保として労働集団の株の50%を与える。債務の期限が迫る。企業長は全力で債務を返済しないよう努める。そうすると、勤労集団の残りの50%の株も「パクト」のものとなる。その後、「パクト」の発起人が集まり、全ての株の半分以上をその企業長に与える。一丁上がり。彼は自分の企業の主人となった。さあ、別の企業長の番だ。こうして、株式会社「パクト」は、...七つの企業法人から22万3,600株を平均単価1,200ルーブルで獲得した。これは取引所価格の半分以下である。...

周知の通り、食欲は食べることによって刺激されるものである。食欲が極大化して、国家予算からの支出金でさえ足りないまでになった。こうして、「パクト」とは関係ないビジネスマン、クライの住民にもなにがしかは獲得可能になった。「これは乱脈である!」と、それを踏み潰したのは、クライ・ソビエト議長とエブゲーニー・ナズドラチェンコであった。この二人が共同で発した93年8月3日付命令により、...169企業の私有化が停止され、私有化手形によってそれらの株を獲得する我々の権利が奪われてしまったのだ。後にこの命令は、クライ小ソビエト(59)によって破棄されたが、それまでに1か月半かかった。さらに1か月半、ロシア大統領府統制局によるナズドラチェンコ行政府の査察が始まるまで、それら企業の公開オークションは行われなかったのだ。要するに、「パクト」が既定の企業を取得できるだけの資金を貯め込む間、私有化は停止されたのだ。

...ナズドラチェンコとその代理[副知事]たちは、92年4月4日付大統領布告「国家公務員の汚職について」に反して、「パクト」をはじめとする数々の営利組織に加わった。...

要するに、「パクト」は、クライ行政府のパトロネージの下で、驚くほど短期間のうちに、沿海地方の360の巨大企業のうち200について支配権を確立したのだ(60)。

 

 

 

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