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人物ではないかという漠然としたイメージが持たれていた(51)。こうした事情から、1993年5月、クズネツォフに替えてナズドラチェンコをクライ行政府長官(知事)に任命することへの沿海地方ソビエトの同意をエリツィンが求めた際には、投票した165代議員のうち147名の支持がナズドラチェンコに寄せられたのである(52)。

クズネツォフの行政手腕をどう評価するかは別として、沿海地方におけるこの政権交代は、「雄弁家(革命的ロマン主義者)から経営者型指導者への揺れ戻し」と定式化することができるものであり、1993年頃のロシア全国の時代風潮を反映したものだった。ところが、ウラジオストク市では全く逆の方向への政権交代が起こった。1993年3月にエヴレーモフ市行政府長官(市長)が辞任すると、6月12日(ロシア独立記念日)を投票日として市長の直接公選が宣言された。ウラジオストクでの市長公選は、モスクワ、サンクトペテルブルクに次いで全国3番目の例であった。ソロヴィヨフを中心とする市ソビエト派は、「パクト」派が市権力をも奪取することを防ぐために、1942年生まれの海軍大佐ヴィクトル・チェレプコーフを非公式に推した。チェレプコーフは、1990年春にクライ・ソビエト代議員として選ばれ、その第1会期においてもソビエト議長に立候補していた(53)が、沿海地方のエスタブリッシュメントに属する人物では全くなかった。クライ・ソビエトにおいては「軍人の人権擁護常設委員会」という地味な委員会に属していたが、兵士・水兵の人権が蹂躙されることが多いロシアにおいては、この職務は「弱者の味方」というオーラをまとうことを助けるようである(54)。 19人の候補が乱立した市長選挙において、チェレプコーフは、「唯一民衆の中から出てきた候補者」、反エスタブリッシュメント、そして唯一「パクト」の権力独占に反対する候補者であるということをキャッチフレーズにした(55)。奇妙なことだが、19人という候補者数が示すように「パクト」側は候補者調整をできず、チェレプコーフだけが引き立つ結果となった。「パクト」派の本命であったファヂェーエフは第1回投票で早くも淘汰され、6月26日に行われた決選投票の結果、チェレプコーフは絶対得票率19.8%で市長となった(56)。この選挙運動の過程で、ポピュリストとしてのチェレプコーフの素質は遺憾なく発揮された(57)。概して、チェレプコーフは、あれこれの職場(たとえば軍の部隊)を訪問すると、職場の全員とマンツーマンで写真を撮り、全てサイン入りでプレゼントすることも厭わないそうである(58)。筆者との面談において、クライ行政府のある幹部は、チェレプコーフのことを「ゲッベルス的心理学者」と呼んだ(もちろんこれは、誉め言葉としてはやや過分である)。

ショック療法後の困難の中で、一方では、実務能力を誇るプラグマティスト、「赤い企業長」の利益代表者としてのナズドラチェンコが台頭した。他方では、ショック療法に痛めつけられた社会的弱者の心の琴線に触れるキャンペーンを展開

 

 

 

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