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つたショック療法期にしばしば外遊したこと、通訳なしに外国人と会話できること、チュバイス型民営化を支持したこと、そして対中国境問題で中国に同情的だったことによって人々を怒らせた。決定的なのは、1992-93年の苦境下で人々が生贄の羊を必要としており、クズネツォフがその役割を引き受けたということである(47)。沿海地方民がプリンス・クズネツォフに幻滅する過程は、彼らがアジア太平洋経済圏への過剰な期待を失ってゆく過程でもあった。1993年までには、沿海地方民は、東(アジア太平洋圏)よりもむしろ西(ロシア内地)に顔を向けるようになったのである。まさにこの年、中央から補助金を引き出す方便としての「極東共和国」宣言が浮上したのは偶然ではない。

こんにちのロシアの指導者は、社会主義社会でも民主主義社会でも通用した(する)資質を持った人が多いが、40歳近くなるまでその身分は職長にすぎなかったナズドラチェンコは、まさに民主主義社会の申し子である。彼は、1949年に千島列島で生まれた(後に北方領土問題に干渉する発言をしたのは、このためでもあろう)。2歳のときにナズドラチェンコ家は沿海地方に移住、学校時代から「クラスの非公式のリーダーであっただけではなく常に級長を務め」、陸上競技で活躍した。100メートルを11秒で走った(48)。学校卒業後は一貫して鉱業畑を歩む。1983年には極東技術大学を「通信教育で」修了、彼に卒業証書を与えたG.ラザレフは、後に同大学の学長としてナズドラチェンコ派の著名な学者政治家となり、第1期沿海地方議会議員ともなった。ナズドラチェンコは、ペレストロイカ期の国営企業改革によって柔軟な経営形態が認められたチャンスをとらえて仲間と一緒に鉱業・金属製錬アルテリ「ヴォストーク」を創設、これが当たって成長企業となる。1990年春にはロシア人民代議員に当選した。選挙運動時から「クリーゲル」だとか「オットー・スコルツェニ」だとかいう緯名で呼ばれる沿海地方の有名な「ゴッド・ファーザー」たちの資金・組織面での援助が噂されていた(49)。1991年8月クーデターの際、たまたまモスクワに滞在していたナズドラチェンコは、「ホワイト・ハウス」の防衛に敢然と参加、エリツィンの愛顧を賜るようになる(50)。

1992年に成立していた「パクト」は、元来は地元経営者に有利なように私有化を進めるための資金運用組織であったが、1993年前半には、クズネツォフ引き下ろしのための政治センター、民主派から「赤い企業長」までが参加する反クズネツォフ統一戦線としての役割を果たすようになった。 しかし、「パクト」指導者の中からクズネツォフの後継者を出すのではあまりに露骨である。そこで、「パクト」メンバーではあったが中心的な指導者ではなく、ウラジオストクから遠く離れたダリニェゴルスク市の鉱業企業家にすぎなかったナズドラチェンコに白羽の矢が当たったのである。ナズドラチェンコはロシア人民代議員であったから、進歩的な

 

 

 

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